これさえあればすくすく成長

 
「生まれたばかりの乳飲み子のように、
純粋な、霊の乳
(偽りのない、みことばの乳)を
慕い求めなさい。
それによって成長し、
救いを得るためです。」
ペテロ2:2
 
 
 
生まれたばっかりの赤ちゃんを
見たことがありますか?
初めて見ると
めちゃめちゃちっちゃくて、
ほんとにびっくりします。
足なんか細すぎて折れちゃいそう
 
 
 
生まれたての赤ちゃんは
自分では何一つできません。
歩くことはもちろん
立つことも座ることもできない。
目もはっきり見えないし、しゃべれない。
自分で何かを食べることもできません。
 
 
 
たった一つできるのが
お乳を飲むこと。
それがまたびっくりするくらい上手。
 
 
 
お乳のパワーもまたびっくり。
ほぼお乳だけを飲んでる赤ちゃんが
1年後には体重は2倍以上、
身長も1.5倍くらいに大きくなるんですから
ほんとにすごいですよね!😲
 
 
 
そんなすごい飲み物が
人間の体から出てくるんだから
これまた不思議と言うしかない。
神さまって、ほんとにすごいね。
 
 
 
赤ちゃんを育てるお乳のように
私たちの信仰を育ててくれるのは
みことば。
と今日のみことばは言っています。
 
 
 
信仰を大きく強くする養分は
全部みことばの中にある。
お乳を飲んでさえいれば
赤ちゃんがすくすく成長するように、
みことばは私たちの信仰を
すくすく成長させる力を持っているのです。
 
 
 
逆にどんなに栄養があると言っても、
お乳じゃないものをあげたんじゃ、
赤ちゃんは大きくなれません。
みことば以外のものでは
信仰がすくすく育つことはむずかしい。
ってことですね。
 
 
 
だから結論はただ一つ。
ぜひ自分の目で
みことばを読みましょう!
今日もみことばでまた一歩成長できますように。
 
 

何を捨てても取っておくもの

「試練で試された
あなたがたの信仰は
火で精錬されてもなお朽ちていく
金よりも高価であり、
イエス・キリストが現れるとき、
称賛と栄光と誉れをもたらします。」
ペテロ1:7
 
 
 
物があふれすぎて
部屋の中がごちゃごちゃ。
そんな悩みをかかえた人がふえて、
いらない物は捨てる。
必要以上の物は持たない生活。
を勧める声が広まっています。
 
 
 
取りあえず欲しいから買う。
いつか使うかもしれないから
取っておく。
となると、物はたまるばかり。
 
 
 
だから身の回りをチェックして、
いらない物は手放せば、
部屋だけじゃなく気持ちもスッキリ。
というわけです。
 
 
 
そこで大切になってくるのが
そのものの価値が
ちゃんとわかること。そして、
自分にとってほんとうに必要かどうか
を考えること。
 
 
 
とにかく捨てればいいってもんじゃない。
持ってなくちゃいけなかったもの、
ほんとうは必要だったもの、
まで捨ててしまっては、意味がありません。
 
 
 
そういうことを考える中で
改めて確認したいのが
自分にとっての信仰の価値。
 
 
 
どうしてもなくちゃならないもの?
あった方がいいけど
なくなったからって特に困らないもの?
なくてもいいけど
取りあえず持っているもの?
 
 
 
ペテロは
信仰は金より高価。と言いました。
いちばん価値があるもの。
という意味です。
最後までちゃんと取っておかなくてはいけません。
 
 
 
価値がわからなくて
どうでもいいと思ってしまうことが
ありませんように。
決して手放してはいけないことが
はっきりわかりますように。
 
 

”できるかどうか”よりも大事なこと

「神は馬の力を喜ばず
人の足の速さを好まれない。
主を恐れる者と
御恵みを待ち望む者とを
主は好まれる。」
(詩篇147:10,11
 
 
 
見た目がカッコいい。
頭がいい。
スポーツができる。
お金があって高級なプレゼントをしてくれる。
 
 
 
直接におつき合いするんじゃないとき。
おつき合いしても
時々会っているだけのとき。には、
そういうことが
大事ポイントになることが
多いかもしれません。
 
 
 
でももっと深くかかわる
—最終的にはいっしょに暮らす
ということになったら、
それだけでは十分じゃない
ということがよくわかるでしょう。
 
 
 
むしろそういうことは
ある意味どっちでもいい。
それよりちゃんと心を開いて
向き合ってくれるかどうか。
人と人のかかわりって、
自分を自分として認め受け入れてくれるかどうか
の方が大事です。
 
 
 
そもそも何ができるかで
判断されるかかわりって、
疲れる。
 
 
 
神さまも同じ。
“優秀なこと、できがいいことを
神さまは求めていると
私たちは思いがち。
 
 
 
でも、そうではありません。
力が強いこと。足が速いこと。
よりも、神さまがいてくれることを
認め、喜び、受け入れていること。
 
 
 
そのことを喜び、
そういう人にこそ
恵みを豊かに注いでくれます。
 
 
 
今日もどれだけ自分ができる人間か
がんばるのではなく、
神さまがいてくれることを感謝して
過ごしましょう。
 
 

ちゃんと見える目

「目が見えるようにしてください。」
(マルコ10:51
 
 
 
こんなまだまだ暑い時に
ピンとこない話だけれど、
冬に雪がたくさん降る地域では、
道の両脇にそって
赤白しましまの高い棒が立っています。
 
 
 
夏の間はなんのため???なんだけど
雪が降ればよくわかる。
「道はここまで。
ここをはずれると田んぼだよ~」
ということを教えてくれる目印です。
 
 
 
雪の田んぼに落ちてしまった車は、
ほぼ100%廃車行きだそうだから、
とにかく落ちないことが大事。
 
 
 
雪は何もかも覆い隠してくれて
一面まっ白。きれいなのはいいんだけれど、
見えなくちゃいけないものまで
隠してしまう。
見えないって、こわいです。
 
 
 
私たちの生活でも、
楽しい。美しい。刺激的。ワクワク。
で見えなくなっている危険が
たくさんあります。
きれいに見えているけれど、
実はそこに踏み外したら大変な危険が😨。
 
 
 
見るべきものを見ることができる目。
それはイエスさまが
開いてくれるもの。
 
 
 
その目でみことばを読み、
自分の生活を見れば、
境目の赤白棒がちゃんと見える。
見えない危険に落ち込むことがないように
守られることができます。
 
 
 
今週も見るべきものが見えるように
お祈りしながら
守っていただいて歩みましょう。
 
 

することからもされることからも守られる道

「彼女を、
するままにさせておきなさい。
なぜ困らせるのですか。
彼女は、
自分にできることをしたのです。」
(マルコ14:6,8
 
 
 
何人かの者が一人のしたことに対して
そんなのおかしい、って憤慨する。
そして、厳しく責める。
ここで起きていることはそういうこと。
 
 
 
これって、もしこのときに
SNSがあったら炎上してた。
ってことですよね。
 
 
 
自分の価値観で人を評価して
それはおかしいと決めつける。
ちょっとおかしいんじゃないかな
と思うだけならまだしも、
それで厳しく責める
 
 
 
人がすることって、
イエスさまのころから
・・・実際はそれよりずっと前から
ちっとも変わっていません。
 
 
 
原因は人の心の中にある。
と聖書ははっきり言っています。
今さらのことではないんですね。
「そんなことすべきじゃない」
といくら議論しても、
それでは解決しない問題なのです。
 
 
 
でも、
することからもされることからも
守られる道も
聖書にちゃんと書いてある。
 
 
 
まずは自分が
そういう自分だけの価値観で
人をさばいたり責めたりしないように
神さまに自分の心を守ってもらうこと。
 
 
 
そして、
神さまは本当の心を知っていてくれる。
ということを知って、
そういうことをする人たちじゃなく
神さまに目を向けること。
 
 
 
今日も神さまは
ちゃんと見ていてくれます。
だから安心して与えられている務めを
自分なりにがんばればいいのです。