理屈も大事だけど事実の方がもっと大事
「蛇が人をかんでも、
その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると
生きた。」
(民数記21:9)
人間は理解できないと
行動できない。
とある人が言うのを聞きました。
確かに。
言われたからただその通りにする
っていうんじゃなくて、
ちゃんと考えて自分から行動する。
って、とっても大事。
でも相手が神さまのときには、
少し話がちがいます。
だって、もし意味がわからなければ行動しない
と言い続けていたら、
神さまを信じることは
永遠にできないですよね?
この場面もそうです。
蛇にかまれたということと
青銅の蛇を仰ぎ見ることは、
私たちの頭でどう考えても
つながりません。
でも、言われたとおりにした人は
生き、しなかった人は
死んでしまいました。
理屈でどうわからなくても、
それがまぎれもない事実だったのです。
イエスさまが十字架にかかったことが
どう今の私の罪のゆるしに
つながっているのか。
それは私たちがいくら考えても
理解できないこと。
でも神さまが言われたとおりにすれば
生きることができる。
そして仰ぎ見ないなら滅んでしまうのです。
これも理屈とはかかわりなく、
まぎれもない事実です。
理解できないからバカバカしいと
捨ててしまうのか、
神さまが決めたことならと
受け取るのか、
それは私たちにまかされていること。
自分が理解できないからといって
むざむざいのちを捨てる。
それこそバカバカしいし、もったいない。
ぜひ「ではいただきます」
と言いましょう。
これは救いだけじゃなく
クリスチャン生活全体に言えること。
ぜひ今日もたくさんもらって
神さまの恵みの中を過ごしましょう。
ふところに抱きかかえるように
「エルサレムを
山々が取り囲んでいるように
主は御民を
今よりとこしえまでも囲まれる。」
(詩篇125:2)
家族の話で恐縮だけど、
私の母は山が見えるところに住むのが
あこがれ。と言います。
とにかく緑が好き。
そして、抱きかかえるように
守られている感じがいいらしい。
私はというと、
けっこう長い間生きてきましたが、
山が見えるところには
住んだことがありません。
だから
あまりこだわりはないのだけれど、
守られている感は
何となくわかる気はします。
山のふところに抱かれて
なんていう言葉もあるけれど、
豊かな自然に守られている安心感
のようなものを表すのでしょう。
ある人は実際に、
台風がやってくる側に山がある場所に
自分の家を建てた。
だから台風が来てもまったく大丈夫
ちょっと風がいつもより強いかなくらい。
と言ってて、
は~ぁ、そういう考え方もあるのか~
と思いました。
取り囲んで守ってくれる山。
その実感がこれを読んでいるみんなに
どのくらい伝わるかわからないけれど、
神さまはその山のように
私たちを取り囲んでいてくれる。
と今日のみことばは言っています。
それは、豊かな供給を与えてくれること
私たちを襲うさまざまなものから
守ってくれることを
意味しています。
山々が抱きかかえるように
私たちを守っていてくれる神さま。
その方がいてくれることを忘れないで
今日も1日を過ごしましょう。
ワクチンがあるととても心強い
「みことばによって
私の歩みを確かにし、
どんな不法にも
私を支配させないでください。」
(詩篇119:133)
早くワクチンができないかな~
みんなが待ちわびています。
ワクチンがあれば、
今のいろんな制限からかなり解放される。
もちろんたくさんの人たちが
かなりがんばっていてくれる。
それでも早くて来年なのかな?
ワクチンを打つと、
なぜ病気にかからなくなるのか。
それはその病気の“抗体”っていうものを
作ってくれるかららしい。
ウィルスは体に入ると
体の細胞に取りついて
こわしたり増殖したりする。
ウィルスが体に取りつくためのカギに
ピッタリのかたちなのが抗体。
抗体がピッタリはまってくれるから、
カギを封じ込めて
体に取りつけないようにしてくれる。
だから体は害を受けなくてすむ。
まあ、ものすごくザックリな説明だけど。
ほんとに早くできるといいね。
コロナウィルスのワクチン。
みことばも、私たちの心に
ワクチンのような働きをしてくれます。
罪や悪が心に入ろうとしたとき、
私たちの心に取りつこうとするカギを
封じ込めてくれる。
私たちの心が罪や悪に
侵されてしまわないように
守ってくれるのです。
だからいつでも
みことばにしっかりふれ続けて、
まわり中からねらっている
罪や悪にやられてしまわないように、
守ってもらいましょう。
リンクがわかると視界が開ける
「私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある
奇しいことに。」
(詩篇119:18)
学校の勉強って、
何のためにするんだろう?
サイン、コサイン、タンジェント
って、卒業してから使うことある?
こんな質問・疑問よく聞きます。
でも、二度とお目にかかっていない
と思っている三角関数も
実はかなり私たちの生活に
なくてはならないものらしい。
GPSや地図、
プログラミングやCG、
音声処理、画像処理
これ全部三角関数あってのことなんだって。
へ~~え。
じゃあ、めちゃくちゃ恩恵を受けてるんだね。
自分の生活とのつながりが
見つかると、
これまでのイメージもちょっと変わって
視界が開けた感じになります。
聖書のみことばも
実際の生活にどう関係あるの?
いったい何か役に立つの?
と感じることがあるかもしれません。
祭壇のサイズ。いけにえの数。
とかの細かい律法…
今の生活には全然関係ないと思うことも
たくさん書いてある。
でもそれが書かれている意図。
それがもたらした結果。
などを考えると、
神さまの配慮の大きさを知ったり、
今の生き方に活かせることもたくさん。
関係ない。っていう気持ちじゃなく、
どうリンクするのかな。
という思いを持って読む。
それがとても大切です。
みことばは
自分の生活の中で具体的・実際的に
力を与えてくれるもの。
今日も新しいリンクが
見つかりますように。
そんなに言われたらスルーするわけにいかない
「人々は、耳が聞こえず
口のきけない人を連れてきて、
彼の上に手を置いてくださいと
懇願した。」
(マルコ7:32)
今回初めてのように
この“懇願”ということばが
目に留まりました。
懇願。
誠意をもって頼み願うこと。
ひたすら願うこと。
そうか、その時人々は
ただ軽く願ったんじゃなくて、
心をこめて熱心に願ったんだね。
そう気がついて調べてみると、
他のところでも
けっこう使われています。
そして思いました。
自分が神さまに何かを祈り求めるとき、
それは“懇願”になっているのかな?
心がこもっているのかな?
必要があるならお祈り。
とは知ってるからお祈りするけれど、
“取りあえず”的な気持ちで
してしまっていることもあるかも・・・?
習慣的にいつもどおりのことばで
なんとなくお祈りしていることも
あるかも・・・?
聞いてくれるか聞いてくれないか
知らないけど、
お祈りするだけはした。
願いどおりにならないと
ガッカリするから
もともとあんまり期待はしない…。
もしそんな気持ちがあったとしたら、
それは“懇願”にはならないでしょう。
あれだけ言われたら
スルーするわけに行かないよね。
と神さまに思ってもらうくらい
心をこめたお祈り。
毎日ささげているお祈りであっても、
今日は改めて心をこめてみる。
ぜひやってみましょう。