知らないからいい人なんて言ってくれる
「人から出て来るもの、
それが人を汚すのです。」
(マルコ7:20)
“鶏が先か卵が先か”問題。
きっとどこかで
聞いたことがあると思います。
鶏がいなきゃ卵は生まれない。
でも卵がなきゃ鶏は生まれない。
じゃあどっちが先?
どこまで行っても
理屈で納得できる答えは出ません。
そもそも進化論を信じてるなら、
なぜこの議論をするのか自体がなぞだけど。
聖書を見れば答えは鶏。
当然。だよね。
私たちが普段思ってるのと
実は順番が逆なんだよ。
って聖書が言ってることは他にもあります。
その一つがここ。
うそをついたから、その人は嘘つき。
物を盗んだから、その人は盗人。
と思ってる人が多いけど
実はそうじゃない。
人の心の中には
そうさせるものがもともとある。
嘘つきだからうそをつき、
人のものでも盗ろうという心があるから
盗む。
表れたか表れないかがちがうだけ。
行動にあらわさなければ
人は何も知らないで、
いい人、なんて言ってくれるかもしれない。
でも心の中に何があるかは自分が知ってる。
それってけっこう苦しい。
その苦しみから解放してくれるのは
イエスさまだけ。
そのために十字架にかかってくれました。
そして「わたしの心だ。きよくなれ」
と言ってくれます。
それでも
「それでも
彼らの叫びを聞いたとき
主は彼らの苦しみに
目を留められた。」
(詩篇106:44)
「ええかげんにせい!」
漫才のしめくくりに
よく使われるフレーズ。
はぁ〜?!
と思うようなことを
くり返しやるから、
ええかげんにせい!となる。
漫才なら、アハハ!
で済ませられるかもしれないけれど、
現実だとなかなかそうはいきません。
最初は「そういうこともあるよね〜」
って笑顔で受けとめられても、
あんまりくり返しとなったら
笑顔もこわばってくる。
しかも平気な顔をしてたりすれば
まさかふざけてるの?
という思いもわいてくるでしょう。
もう関わりたくない
と思ってしまうかもしれません。
でも神さまが
私たちを受け入れてくれる
その懐の深さといったら、
それはもう私たちの想像をはるかに超えている。
私たちが失敗してしまったり
悲しませてしまったりを
何度くり返したかは
リアルで数えきれないほどです。
「それでも」神さまは
もう関わりたくないと言わずに
目を留め、手をさしのべてくれました。
これからもそうしてくれます。
失敗してもそれで終わりじゃない。
「それでも」
ちゃんとゆるして愛してくれます。
だから心配しなくてだいじょうぶ。
システムの恩恵にひたすらあずかっている
「夜昼、
寝たり起きたりしているうちに
種は芽を出して育ちますが、
どのようにしてそうなるのか、
その人は知りません。」
(マルコ4:27)
コロナウィルスで重症になったとき、
エクモという装置があると
助かる可能性が
ぐっと上がるそうです。
つなぐと
肺の代わりをしてくれるから、
その間肺を休ませて
肺が自力で回復するのを待てる。
っていうことらしい。
じゃあなんで肺は
働かせないで待ってれば
自力で回復するのか。
それはどんなに優秀な名医でも
きっと答えることはできないでしょう。
それはいのちが持っている力。
だから“もともとそうなっている”
としか言いようがない。
考えてみたら私たちのまわりは
どうしてそうなるのか
知らないことだらけ。
人間の体も、種の成長も
そうなっている。
=神さまがそうしてくれている。
人ができることは、
それがなるべくうまくいくように
サポートすることだけ。
人は知っていると思いがちだけれど、
実は知らないことだらけで
ただただ神さまが造ってくれた
システムの恩恵に
ひたすらあずかっている。
今日も神さまは
たくさんたくさんの恵みを
注いでくれています。
感謝しながら1日過ごしましょう。
わたしはそのために来たんだよ!
「医者を必要とするのは、
丈夫な人ではなく病人です。
わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためです。」
(マルコ2:17)
コロナウィルスの感染が
なかなか収まらなくて大変だけれど、
おさえるのがむずかしい理由の一つは、
無症状の感染者がいる
ということのようです。
実は感染していて
ウィルスを持っているんだけれども
症状が出ていないから
本人が感染していることに気づかない。
だからふつうに生活する。
それで、接触する人たちに
感染が広がってしまうというのです。
検査しないかぎりわからないので、
やっかいです。
自分はぜったい持っていないと思わず
ちゃんと気をつけて生活しないとね。
っていう感じですね。
聖書がわかってもらおうとしている
私たちの問題も、
ちょっとこのウィルスと似ています。
今のところなんの症状もないので、
自分はだいじょうぶ
と思って生活している人が
たくさんいます。
でもコロナがPCR検査でわかるように
聖書のみことばに照らす
という検査を受けると、
すべての人は罪というウィルスに
感染していることがわかるのです。
そのウィルスはそのまま放っておけば
やがて私たちのたましいを
死の危険にさらします。
だから、早く気がついて!
コロナウィルスのワクチンは
まだできていないけれど、
この病をいやす方法はもう見つかっているから。
わたしはそのために来たんだよ!
イエスさまは
そう言っているのです。
今日もだいじょうぶと言えるっていいよね
「もしも主が
私の助けでなかったなら
私のたましいは ただちに
沈黙のうちに とどまったでしょう。」
(詩篇94:17)
この人って
何だかよくわからないけど
妙に強気だなー
と感じることがあります。
後から
それなりのバックがついてる
ってことがわかって、納得。
本人にはそれほどの力はないし
立場も特にないはずなのに、
必ずバックアップしてくれる
ってわかってる存在があると
強気になれるんですね。
そのバックが強ければ強いほど、
自分の安心度も高まる。
今ちょっと
うまくいかないように見えていても、
安心していることができます。
でもそのバックが
実はそんなには当てにならないんじゃないの?
っていう場合もあって、
いやいや、そこで強気になっちゃ
だめでしょ、っていうこともあるけど…。
私たちのバックはもちろん神さま。
神さまほどに揺るがない
確かなバックはありません。
神さまがいなかったら、
とっくに沈黙に沈まなきゃならない
場面でも、
神さまがいてくれるから
立ち続けることができるのです。
神さまがいてくれるから
私たちは今日も
だいじょうぶです。と言っていいのです。