見える景色が必ず変わってくる

 
「神よ
あなたはいつくしみをもって
苦しむ者のために
備えをされました。」
(詩篇68:10
 
 
 
友だちで集まろう
っていうことになったときの話。
 
 
 
どうしようか迷ってたAさんが
やっぱり行くことにして
「今着きました」ってLINEしたら、
もう着いてたBさんから
「何で来たの?」っていう返信が。
 
 
 
Aさんは自分は
来ちゃいけなかったんだと思って
自分を省こうとするBさんを
次の日から無視したそうです。
 
 
 
でも実はBさんは
「なんで来たの?」じゃなく、
「なにで来たの?」
って交通手段を聞いただけだった。
 
 
 
二人の関係が
もともと確かじゃなかったから
ほんとうは善意で聞いたのに、
悪意に取られちゃう。
っていう悲しい誤解が生まれたんだね。
 
 
 
私たちは
何か自分にとっていやなこと
困ることが起きると、
神さまが意地悪をしている
それ以上言うこと聞かなかったら
こわい目にあうぞ、っておどかしてる
なんていうふうに
それを神さまの悪意と思いがち。
 
 
 
でもそれは大いなる誤解。
そして神さまへの信頼が足りないしるし。
そもそも神さまには
悪意、というものがありません。
私たちへの神さまの気持は
どんなときにもいつくしみ。
 
 
 
そのことをどんなときにも
忘れないように
しっかり心にとどめておきましょう。
そこを動かさない前提にして
すべてのことを見るようにしましょう。
 
 
 
見える景色が
必ず変わってきます。

スッキリ爽快に胸を張って

「正しい人は主にあって喜び
主に身を避けます。
心の直ぐな人はみな
誇ることができます。」
(詩篇64:10
 
 
 
着々と手がこんでくる詐欺。
気をつけてね!
ってあちこちで注意されてるけど、
いっこうに減らないらしいです。
 
 
 
最初にかかってきた電話が
詐欺だと見抜いてキッパリ断った人も
次にかかって来た電話で
だまされてしまうんだとか。
 
 
 
悪知恵、なんていうことばがあるけど、
この詩篇にも
「悪事に凝っている」
なんて書いてある。
 
 
 
それだけの頭と力があるなら
もっと別のところに使ったらいいのに。
と思ってしまいます。
 
 
 
知恵と力を尽くして
だまし取るお金。
額が大きいほど成功なのでしょう。
 
 
 
でもその成功は
決して胸を張らせてはくれません。
どんなに成功しても、
人に知られないようにこそこそ
していなくちゃならない。
 
 
 
胸を張れず、隠しておく。
これはすべての罪に通じる特色。
成功してるのに幸せなれない。
とても悲しいですね。
 
 
 
そういうことがないようにしてくれる。
それが、神さまが
私たちに与えてくれる恵み。
 
 
 
神さまに隠しごとがないとき、
なんの後ろめたさもなく
誇ることができる=胸を張れる。
そのスッキリ感と爽快感。
 
 
 
それは神さま以外のところでは
決して手にできない恵みです。
 
 
 
あまりに暑くて
スッキリも爽快にも無縁の毎日。
せめて心はスッキリと
胸を張って過ごせる1日でありますように。

ぜったいに手出しできない場所

「民よ
どんな時にも神に信頼せよ。
あなたがたの心を
神の御前に注ぎ出せ。
神はわれらの避け所である。」
(詩篇62:8
 
 
 
小さい子どもたちと
かくれんぼをすると、
自分では隠れたつもりなんだけど、
体のうしろ半分が丸見え、
なんてことがよくあります。
 
 
 
「あれあれ、○○ちゃん、
どこかな~?」なんてわざと言うと、
キャハハ、と言いながら
もっと頭をつっこんだりして
ほんと、かわいい😊。
 
 
 
その場所が自分の体の大きさを
すっぽりちゃんと隠してくれるかどうか
まだわからないから、
そんなことになってしまうんですね。
 
 
 
この世の力やサタンが
私たちを襲ってくるとき、
私たちが自分でがんばって戦おうとしたり、
人間の知恵で対処したりしようとするのは、
小さな子どもが
自分の体を隠してくれない場所に
頭をつっ込んでいるようなもの
…かもしれません。
 
 
 
ほんとは丸見えだから
「あれあれ、それで隠れたつもり?」
ってサタンが逆に苦笑・・・
なんてことになりかねない。
 
 
 
じゃあどこなら安全なんでしょう?
それは神さまっていう避け所。
 
 
 
でも神さまに隠れるって、
どうやるの?
それはここに書いてあるとおり、
神さまを信頼して
心を注ぎ出す=お祈りすること。
 
 
 
えー、そんなことで
ほんとにちゃんと隠れられてる?
と不安になるかもしれませんが、
だいじょうぶ。
 
 
 
そういうふうに
神さまを信じてお祈りする人に
サタンは手出しができません。
 
 
 
今日も、しっかり神さまの陰に
入っていますか?
そのことさえ確かなら、
どんなことがあっても安心です。

減っているように見えて増えている

「わたしはあなたの家から雄牛を
囲いから雄やぎを
取ろうとしているのではない。
…感謝のいけにえを神に献げよ。」
(詩篇50:9,14
 
 
 
私たちにとって、
神さまのために使うお金や時間
=献金や奉仕は
どのようなものでしょうか。
 
 
 
喜んでさし出すことができるもの?
それとも
ほんとうはいやだけど、
そういうことになってるから
仕方なくさし出すもの?
 
 
 
ほんとうはあまり気が進まない
という気持ちがあるなら、
それはお金も時間も
“自分のものだと思っているから
でしょう。
 
 
 
自分のものなのに
取り上げられる、と思えば、
いやなこと、ひどいことに
なってしまいます。
 
 
 
でも神さまは決して、
私たちのお金や時間を
取り上げようとしているのではありません。
 
 
 
私たちが自分のものだ
と思っているお金も時間も
実はもともと神さまがあたえてくれたもの。
 
 
 
でも私たちはそのことを
とっても忘れやすい。
神さまのために使うことは、
そのことを思い出し、
忘れないでいられるための
一番いい方法なのです。
 
 
 
自分のものを与えてしまったら、
自分のものが減っているように見える
かもしれません。
でも実は私たちの心をいちばん豊かに
満たしてしてくれるのです。
 
 
 
そして喜んで与えるなら、
自分がさし出したものよりもっと豊かに
神さまが与えてくれる。
それが神さまの約束であり、
祝福なのです。

いてもいなくてもどうでもよくない

「たましいの贖いの代価は高く
永久に
あきらめなくてはならない。」
(詩篇49:8
 
 
 
出された品物に
参加する人が値段をつけていく
オークション。
いちばん高い値段をつけた人が落札。
その品物を手に入れることができます。
 
 
 
今はネットで
いろんなオークションをやっているから、
みなさんにとっても
けっこう身近ですよね。
 
 
 
ところで実際にはあり得ないけれど、
もしオークションに出品されたのが
人間だったら、
いくらくらいの値段がつくと思いますか?
 
 
 
その値段は
どうやって決まるでしょうか?
 
 
 
高いのは優秀な人、見ばえがいい人、
いい体をしている人、血筋がいい人
そんなふうに思う人が
多いかもしれません。
 
 
 
もしそこに出品されたのが自分だったら、
きっとものすごい安い値段で
もしかしたらだれも
ほしいと言って手を上げないかも。
自分なんていてもいなくても
同じだから
 
 
 
そうではありません。
私たち一人ひとりの価値は、
どんなにお金を持っている人でも
永久にあきらめなくちゃいけないくらい
高い。そう言っているのが今日のみことば。
 
 
 
だからイエスさまが
手を上げてくれました。
そして自分のいのちという
とんでもない代価を払ってくれました。
 
 
 
あなたのたましいには
それだけの価値がある。
いてもいなくてもどうでもよくない。
いてくれないと困る。
イエスさまはそう言っています。
 
 
 
イエスさまがこれ以上ない落札価格で
買い取ってくれた私たち。
だから私たちも
自分自身のことを
もっと大切にしなくちゃいけないんだと
思います。