花嫁じゃないけど結婚式に純白のドレスで
「友よ。
どうして婚礼の礼服を着ないで、
ここに入って来たのか。
しかし、彼は黙っていた。」
(マタイ22:12)
結婚式に招かれたときには
よっぽどのカジュアルなホームパーティー形式
でもないかぎり、
それなりの服装で参列します。
ドレスコード。っていうやつですね。
女子だったら
花嫁の色である白を避けるのは常識。
ほかにもいくつかルールがあります。
それを守るのは、
主役の気持ちを思うならごく自然なこと。
天国にもドレスコードがあります。
このたとえ話で婚礼の礼服
と言われているその服は、
他の場所では義の衣、子羊の血で洗った衣
などとも言われているドレスで、
色は純白。
親戚の結婚式くらいなら
ドレスコードを守らなくても
ひんしゅくをかって後々言われる
くらいで終わるかもしれませんが、
天国の婚宴は
この礼服を着ていなければ
入ることができません。
入りたいなら守るのが自然なルールです。
天国には一点の染みも黄ばみも
ふさわしくない。
でも天国にふさわしいその白さは
人間が出すことができない白。
だから、神さまがすべて
準備してくれました。
着る服が準備できないから入れない。
という人はだれもいません。
神さまは全員に入ってほしいので、
全員分完ぺきに準備できています。
あとは着るだけ。
行ってみたらいつも親しくしていた
あの人がいなかった
なんてことになったら悲しすぎます😢
ぜひ準備してくれた服を着て、
みんなでそろって天国に行けますように。
分からないって言ってるけどほんとは分かってる?
「そこで彼らはイエスに
『分かりません』と答えた。」
(マタイ21:27)
彼ら=祭司長や民の長老たち
は、ほんとうは
分かっていましたが、
分かりませんと答えました。
人間が最初に殺人を犯したとき、
「弟アベルはどこにいるのか」
と神さまに聞かれたカインは、
「私は知りません」
と言いました。
ほんとうはわかっていること。
ほんとうは知っていること。を
わからない。知らない。と言う。
それは、
知っていると言ってしまったら
自分が不利になる。都合が悪いから。
もちろん
複雑な、しかも神さまを知らない
人間関係の中では、
知ってることは何でも言っていいかというと、
そうとはかぎらない。
言ってはいけないこともあるでしょう。
でも相手が神さまの場合、
それはalways NG。
そもそも神さまは全部お見通しなんだから、
隠すこと自体まったく意味がありません。
神さまに「分かっています」
「知っています」と言わせないもの。
それが、実は
私たちの心が抱えている問題の中心。
自分で自分を守ろうとガードを張るから
とっても疲れるし、
何をやっても心からは楽しめません。
なぜ言えないのか。
言いたくないのか。
そこにちゃんと向き合う。
神さまに対しては、
どんなときも、どんなことも
分かっていることを分かっていると言える。
知っていることを知っていると言える。
それが心がすっきり晴れ晴れのカギ。
⇒ほんとうの幸せのカギ。
なのです。
人間の大人の賢さでさし引かない
「まことに、
あなたがたに言います。
向きを変えて
子どもたちのようにならなければ、
決して天の御国に入れません。」
(マタイ18:3)
嘘のようなホントのはなし。
私の父はしゃべり出したころ
自分のことを
“あんた”って言ってたそうです。
なぜ?
母親、つまり私のおばあちゃんが
父のことをいつも“あんた”
って呼んでたからww
上の子が下の子に「だめ!」
っていう言い方が
あまりに自分そっくりで冷や汗😅
というのも、ママ友話のあるある。
子どもは
大人のすることをじっと見て、
大人が言うことをじっと聞いて、
そのとおりにマネをします。
そうやって覚えていくんですね。
でもそれはほんとに
ごくごく最初のころだけ。
ちょっと大きくなればあっという間に、
だって。とか、えー? とか、
でもさー。とか。
100%は受け取らなくなる。
それは真に受けちゃいけないこともある
っていう自分なりの判断力が
ついた証しで、
この世界で生きていくには必要なもの。
でも相手が神さまの場合は
ちがいます。
神さまに限っては
どのくらい真に受けられるかがカギ。
さし引いて聞く癖がついている
私たちだから、
真に受けるためには
自分でそうしようって決めることが必要。
「向きを変えて」
っていうのはそういう意味です。
がんばってでもそう決めましょう。
人間の大人の賢さで
神さまの言うことをさし引いて聞くと
その分損をするのは
自分なんですから。