まさかまさかのところから
「イエスは湖の上を歩いて
弟子たちのところに来られた。」
(マタイ14:25)
神さまが
私たちを助けてくれるって、
どういうことでしょうか。
困ったこと、苦しいこと、
つらいことがとにかくなくなって
自分が楽になること?
お祈りしてるのに
なかなか苦しみが過ぎ去って行かないと
神さまってお祈り聞いてるのかな
って疑ってしまうこと
あるかもしれません。
私たちはやっぱり
自分を楽にしてくれることが
神さまが助けてくれることだ。
と思ってることが多いんだね。
でも神さまの助けって、
必ずしもそうとはかぎらなくて、
私たちがまったく思ってもいない
まさかまさかのところから
来ることもある。
このときの弟子にしたら、
助かるのは嵐が静まること、
と思ったでしょう。
でも嵐はそのままに、
イエスさまはなんと、
嵐の湖の上を歩いてやって来ました。
このときの弟子たち的にはまさに
ありえなーーーーい!!😲。
嵐はまだおさまっていなくても
イエスさまがそこにいるということは
神さまの助けの始まり。
まだ助けてくれない?
イエスさまは
もうそこに来てくれていませんか?
「苦しむとき
そこにある強き助け。」
だから、今週もだいじょうぶです!
やる気が出るかどうかはある意味関係ない
「アブラハムとその子イシュマエルは、
その日のうちに割礼を受けた。」
(創世記17:26)
アブラハムのすばらしいところは、
神さまに言われたら
すぐに実行する。というところだな。
と思います。
どう考えてももう着ない服は、
さっさと処分すれば
すっきりするよね…
課題とゲーム。
課題を先にやっつければ、
課題がギリギリになったり
結局遅れたなんてことにならずに
すむよね…
わかってるんだけどついつい後回し。
結局自分が困り、
自己嫌悪にもおちいる。
そういうこと、ありませんか。
実際は、
後回しにしたことが良かった。
ということは、まずないんだけどね…
これはお祈りして
ちゃんと解決しておいた方がいいな
と感じる心の課題も
同じです。
そのうちそのうちと思って
ぐずぐずして、
結局そのままにしてしまったら、
もやもやし続けていやな気分になるのは自分。
心に感じたらなるべくすぐに。
これ、とても大切なルールです。
ぜひアブラハムを見習いましょう。
そこは自分のがんばりどころ。
やる気が出るかどうかは、
ある意味関係ない。
やる気が出ることだけやってればいい。
っていうのはうそですからね。
だまされないように。
今日示されていることがあるなら、
今日のうちに。
ぜひ腰を上げましょう。
いい意味でそのときはそのとき
「人々があなたがたを引き渡したとき、
何をどう話そうかと
心配しなくてもよいのです。
話すことは、
そのとき与えられるからです。」
(マタイ10:19)
どんなことがあっても
信仰を曲げることなく、
神さまを否定するよりも
自分が殺されることを選択した人たち。
船が遭難して
海に投げ出されたとき、
持っていた救命衣を人に上げて
自分は死んで行った宣教師たち。
そういう信仰の先輩の話を聞くと、
ほんとにすごいなと思うし
自分もそんな信仰を持てたらと
思います。
でも同時に感じるのは、
それはその人たちだからできたことで、
自分がそんなふうにできるとは
とても思えない。
という思いかもしれません。
もし自分が
そんな目に遭うことになったら?
と考えると
まったく自信が持てない。
でもイエスさまは
心配しなくてもよい。
と言いました。
なぜって、
もしそういうことになったら
そのときにはイエスさまが
ちゃんとできるようにしてくれるからです。
だから
起こってもいないことについて、
起こるかどうかもわからないことについて
もしかしたら起こらないことについて
心配しなくてもいい。
自分がそこに置かれたら
そこで必要な助けをくれる。
それがイエスさま。
いい意味でそのときはそのとき。
もしかしてを心配するより、
今日与えられていることを
しっかりやりましょう。
きっと少し軽くなる
「さあ、目を上げて、
あなたがいるその場所から
北、南、東、西を見渡しなさい。」
(創世記13:14)
競泳の池江璃花子選手が
トレーニングを再開した映像が
公開されたのを見ました。
1年以上かかった治療を乗り越え、
笑顔でトレーニングしているのを
見ることができるのは、
他人の私たちでもとてもうれしいですね。
今後は、2024年のパリオリンピックを目ざして
がんばるそうです。
想像を絶するキツい治療やトレーニング。
それだけを見たら
とてもじゃないけど耐えられない。
でもやがての目標がはっきりしてる。
だから持ちこたえ、乗り越えられる。
私たちも、
足もとだけを見ていると、
今の大変さやキツさ、つらさばかりが
強く感じられてしまうかもしれません。
何のためにこんなことをしてるのか。
わからなくなってしまうことも
あり得ます。
だから、
この一歩がどこに続いているのか、
どこに向かっているのか、
ちゃんと見定めていることがとても大切。
神さまはアブラハムに、
まず目を上げて見渡しなさい。
と言いました。
私たちも
縮こまっている手足をグーンと伸ばして
顔を上げ、目を上げて
いったんぐるりと見渡してみましょう。
神さまが私たちに準備してくれている
とっても豊かな恵みの世界
ちゃんと見渡して、
はっきり目に、心に納めましょう。
今日の一歩が
きっと少し軽くなります。
信仰VRゴーグルがあったら
「そこでイエスは彼らの目にさわって、
『あなたがたの信仰のとおりになれ』
と言われた。
すると、彼らの目が開いた。」
(マタイ9:29)
コロナで直接会うことが
むずかしくなり、
インターネットを使った会議が
とっても増えています。
いちばんよく聞くのは
Zoomだけど、
会社によってはVRを使って
お互いアバターで会議している。
というところもあるらしいです。
VR=バーチャルリアリティーでは、
ゴーグルをすると、
ほんとうはないんだけれど
まるでそこにあるかのような仮想現実
の世界が見える。
行ってないけど、行ったみたいに
感じられる。
ちょっとちがうかもしれないけど、
もし自分の信仰の世界が見える
VRゴーグルがあったら、
何が見えるんだろう?
と思いました。
私たちの信仰は、
ふだんは見えないけれど、
もし見えるようになる
信仰VRゴーグルがあったら、
そこにはどんな世界が広がってる?
神さまの栄光が輝く
すばらしい光に満ちた世界。
それとも、
見える現実とあんまり変わらない
薄暗くてしょぼしょぼした世界でしょうか。
イエスさまはいつでも私たちに
「あなたがたの
信仰のとおりになれ」
と言われます。
イエスさまが信仰のとおりになれ
と言ってくれた時、
そこに本当にすばらしい世界があらわれる
そういう信仰を持ちたいですね。
信仰はどんなに大きくても
イエスさまが答えきれないほど
大きすぎる。
ということはないんですから。