「園の木のどれからも
食べてはならないと、
神は本当に言われたのですか。」
(創世記3:1)
就職試験の面接のとき、
家業は何ですか?と聞かれて
カキクケコと答えた…
笑っちゃいけないけど、
思わず爆笑してしまいました。
聞き間違えが起こる原因は
いろいろ。
聞こえた言葉と自分が知っている言葉が
勝手に結びついちゃったり、
一部分だけが強く聞こえちゃったり、
自分の中で自分に都合よく
ちょっとだけ変更しちゃったり。
ただの聞き間違えでも、
思わぬ結果につながっちゃうこともあるから、
気をつけたいところです。
神さまのことばも、
そういうふうに自分のイメージと
勝手に結びつけてしまったり、
一部分だけを聞いてしまったり、
自分に都合よくちょっとだけ変更したり。
けっこうあるあるな気がします。
最初の罪は、
エバがちょっとだけ神さまのことばを
割り引いたことが始まり。
サタンに大きなつけ入るスキを
与えてしまいました。
私たちが思っている
“神さまはこう言ってる”は
神さまがほんとに言ってることと
合ってる?
神さまからしたら、
「おいおい、だれもそんなこと
言ってないんだけど?」って
ツッコみどころ満載かもしれません。
ほんとにそう言ってるかどうか、
ちゃんと確かめましょう。
聞き間違え、思い込みで
何か良くないイメージを持っているとしたら、
もったいなすぎます😢
神さまのことばは恵みに満ちているんですから。
何も生まれるはずないところに!
「見よ。わたしは新しいことを行う。
…必ず、わたしは荒野に道を、
荒れ地に川を設ける。」
(イザヤ43:19)
荒野や荒れ地。
日本に住んでいる私たちは、
それがどんなに大変な場所か、
たぶんほんとうには
知らないんだと思います。
私たちが自然と聞いて
思いうかべる場所の色は“緑”でしょう。
日本の土は
たっぷりの水分を含んでいます。
そして動物や植物、
たくさんの生き物の気配がします。
でも世界の多くの場所では、
自然の色は“茶”。
水分がなくて砂ほこりが舞い、
こんなところでは何も生きていけない。
何も生まれてこない。
そういう荒野だし、荒れ地です。
育てようと思えば
どこでも緑を育てられる私たちは、
ほんとうに恵まれているんだと思います。
自然環境には恵まれている。
でも気持ちや心はどうでしょう。
今いる環境が見渡す限り茶色の荒野のよう。
何の潤いもなく、
何かが生まれてくる気配もない。
何かが変わって新しくなることなど
想像も期待もできない毎日。
ということがあるかもしれません。
でも神さまはそういうところに
道をつくり、川を設ける。
と言っている。
人の力ではどうすることもできないそこに
川を設けて、
いのちが生まれるところ、
人が行き交うところにしてくれる。
必ずそうする。と言っています。
そしてそうする力を持っているのです。
何も生まれるはずない?
そんなことはありません。
神さまが何をしてくれるか
期待して待ちましょう。
まさかまさかのどんでん返し
「ユダヤ人の敵が
ユダヤ人を征服しようと望んでいた
まさにその日に…。」
(エステル9:1)
ミステリーの楽しみは犯人捜し。
映画やドラマでは、
登場してきた時点でこの人怪しい、
ってわかることがけっこう多いですね。
でも最近は、
ずっと仲間だ、味方だと思ってたのに
実は・・・っていうまさかの展開も。
怪しさムンムンだった人が
途中でいなくなっちゃったりすると、
え~、どういうこと?
じゃあ犯人はだれ?!
ってザワザワしてしまいます。
最後の最後に
そっちかーー!!ってなる
まさかまさかのどんでん返し。
スリル感はたまりません。
神さまがすることにも
ちょくちょくどんでん返しが。
あーやられる!っていうまさにその日に
まったく逆のことが起こる。
ユダヤ人が征服され滅ぼされるはずだった
まさにその日に
逆転の法令が出て
ユダヤ人の方が征服することになりました。
神さまのどんでん返しの究極は
十字架です。
殺されてしまった救い主。
これでもう終わりだと嘆く弟子たち。
やってやった!と
ガッツポーズの祭司長たち。
でもそれこそが
ほんとうの勝利の始まりでした。
スリルより安定がいい
と思う私たちかもしれないけれど、
そこは神さまへの信頼のしどころ。
神さまを信じているなら、
必ずだいじょうぶ。
まさにその日になってしまっても
のみ込まれて自分を見失わないために
「ハマンは
モルデカイが自分に対して膝もかがめず、
ひれ伏そうともしないのを見て、
憤りに満たされた。
しかし、ハマンは
モルデカイ一人を手にかけるだけでは
満足しなかった。」
(エステル3:5,6)
自分がトップにいて
みんなが頭を下げ、
自分の顔色をうかがうのが
とってもいい気分。
頭を下げないヤツはむかつくから
その人だけじゃなく
グループや家族もろとも
やっつけようとする。
特別扱いされたら大喜び。
ふふん、どんなもんだい、
オレ様ってこんなにすごいんだぜ。
って自慢話タラタラ。
人がほめたたえるのは
自分以外にはいない。
っていうものすごいかん違い。
…こういう人、
あなたのまわりにもいるかもしれませんね。
エステル記で
ユダヤ人を滅ぼそうとするハマンは
まさにどんぴしゃ、
わかりやすすぎて笑えるくらいww
でもこれはハマンだけが
特別おかしな人だったんじゃなくて、
神さまを信じない人間の心にあるものを
いっさいのブレーキをきかせず
隠さず、ストレートに出しただけ。
こういう人の大迷惑が降りかかってくると
とっても困るけれど、
それで私たちが
ほんとうにやられてしまわないように、
神さまは必ず守ってくれます。
だからある意味の冷静さを失わないように。
つられて感情的になっちゃったら
お互いさまになってしまいます。
聖書を通して
人間のほんとうの姿がわかると、
のみ込まれてしまって
自分を見失ってしまうことからも
守られることでしょう。
それってとっても大事。
今日も落ち着いて1日過ごしましょう。
守ることがあらかじめプログラムされている
「あなたがたに触れる者は、
わたしの瞳に触れる者。」
(ゼカリヤ2:8)
ふだん意識してる人はほぼいないけど、
特別な事情がなければ
だれでも必ずやってる。
それが“まばたき”。
まばたきを漢字にすると“瞬き”。
ほんとに一瞬、てことなんですね。
でも、その一瞬の積み重ねが
眼球を守っています。
まばたきしないで
画面を見つめ続けたりするのは、
目にはとてもよろしくないらしいです。
急にものが飛んできた。
ぶつかりそうになった。
そういう時は、考える暇もなく、
反射的につぶっています。
それはだれかに教えられたからじゃない。
守らなくちゃいけない。
って意識しなくても、
自然にそういうふうにまぶたが動く。
守ることが
あらかじめプログラムされているのです。
それほどに目は大事なもの。
ってことですね。
同じ暴力でも、
目を刺した。となったら、
ただ殴ったというのとは
まったくレベルがちがう話になってきます。
私たちは神さまにとって
それほどに大切な存在。
と言っているのが今日のみことば。
守らなくちゃ、守らなくちゃ、
と思うんじゃなく、
私たちを守るためなら自然に体が動く。
あ〜、気がつかなかった〜
なんてことはぜったいにありません。
いつも迷うことなく
私たちを守ってくれる神さま。
だから今日もだいじょうぶ。
信頼して1日を過ごしましょう。