切ってしまった花は必ず枯れる😢
「枝がぶどうの木に
とどまっていなければ、
自分では実を結ぶことができないのと
同じように、
あなたがたも
わたしにとどまっていなければ、
実を結ぶことはできません。」
(ヨハネ15:4)
たった1本でも
空間や気持ちを明るくしてくれる花。
でもどんどん暑くなってくる
この時期、悲しいのは
せっかく飾ったお花も
すぐに傷んでしまうこと。
どんなにきれいな花も、
いったん切ってしまったら
その瞬間から枯れ始めてるんですね😢。
いくら水をきれいにしても
薬をあげても
少し遅らせることはできたとしても
枯れるのを止めることはできません。
幹や茎につながっている。
それが花が生き続け、実を結び、
いのちがつながっていくための
ぜったいの条件。
私たちの人生も、
イエスさまという枝につながっていなければ
みんな切ってしまった花みたい。
今どんなにきれいでも
やがては必ず枯れてしまいます。
どんな努力も、
それを止める力はありません。
いのちの力は
神さまにしかないもの。
神さまなしでも
ずっときれいなままでいられる
と考えるのは、
切り花がいつまでもきれいなままでいる
と考えるようなもの。
どう考えてもあり得ませんね。
だから私たちにとって
何より大切なことは
神さまにちゃんとつながっていること。
そこが確かなら、
あとは神さまがちゃんとやってくれます。
今日もしっかりつながっていきましょう。
聞き流しリストの例外に
「あなたがたの耳に
主の言われることばを
受けとめさせよ。」
(エレミヤ9:20)
外出自粛の生活の中でも、
オンライン上のやり取りが
かなり自由にできるようになっていたことで
けっこうたくさんの人が助けられたかな
と思います。
ネットはほんとに便利。
このメッセージだって、
ネットがあるからこそ送れるわけです。
その一方、あまりにいろんな意見や情報が
ありすぎて、
どれを見たり聞いたりするかを
選ばざるを得ない。
結果、
自分がいいなと思わないものは
見ない、聞かない、ということになりがち。
あふれる意見、あふれる情報の中では
しかたない、という面もあるけれど、
今日伝えたいことは、
見ない、聞かないリストの中に
神さまのみことばも入れちゃう。
ということがないように。ってこと。
神さまが言いたいことってこうでしょ?
もうわかってるから、
適当に聞いておけばいい・・・?
その“こうでしょ?”が、
勝手な思いこみってことが
けっこうな確率であるある。
ほんとに神さまが言おうとしてるのって
そんなこと?
神さまが
私たちに言おうとしていることは、
必ず私たちの益につながる。
なのにマイナスイメージでしか
とらえられていなかったら
もったいなすぎます。
耳にことばを受けとめさせる。
神さまのことばだけは
聞き流しリストの例外に。
そこんとこ、ぜひ。
実は意外とイエスさまとは逆?
「わたしがあなたがたに
したとおりに、
あなたがたもするようにと、
あなたがたに模範を示したのです。」
(ヨハネ13:15)
イギリス王室の
ウィリアム王子一家は、
国民のなかなかの人気者だそうです。
特にキャサリン妃や
子どもたちの写真がアップされると
着ている服が
どこのブランドのものかが
すぐに突きとめられて、
あっという間に完売することもしばしばだとか。
いいな~、すてきだな~
と思うから、お手本にして、
自分も少しでもそのすてきに近づきたい。
と思うのでしょう。
着る物だけじゃなく、
生き方や考え方にも、
いいお手本を持つことができたら、
とっても助けになります。
大事なのは“いい”お手本を選ぶこと。
もしお手本が悪ければ、
自分も逆に悪くなる
ってこともあり得ますから😨。
私たちの究極のお手本はイエスさま。
「もしイエスさまならどうするだろう」
と考えてみる。
イエスさまの生き方が、
人としての最高の生き方だからです。
だからこそ、
イエスさまがどうしたか
ちゃんと知ることが大事。
私たちが何気なく
これでいいと思っていることが
実は意外とイエスさまとは逆
ってこともけっこうあるかも・・・?
イエスさまならそういうことする?
そういうこと言う?
そういう態度とる?
いつもそれを考えながら
過ごせたら、とってもグッド👍
今日もグッドな1日を。
立派なことばの陰に隠れているもの
「イスカリオテのユダが言った。
『どうして、この香油を
三百デナリで売って、
貧しい人々に施さなかったのか』
彼がこう言ったのは、
貧しい人々を
心にかけていたからではなく…。」
(ヨハネ12:4~6)
香油を売って、
そのお金を
貧しい人たちに分けてあげるべき。
とユダは言いました。
困った人のことを考えてあげてて、
ほんとに愛にあふれた
親切な人✨・・・?
でも、実はこれは
貧しい人たちのことを
心にかけていたからじゃなかった。
と聖書はばらしています💦
ほんとうの目的は
自分がやっている悪いことから
人の目をそらせるため。でした。
いかにも親切そうで、
やさしそうで、立派なことば。
でもその陰に
別の目的が隠れていることがある。
よくあるのは
自分をいい人に見せるため。
冷たい人と思われないため。
相手のためじゃなくて結局は自分のため。
だから、
まわりの人たちのそんな言葉で
喜んだり落ち込んだり、
自分も合わせなければと
がんばったりするのって
ほんとはとてもむなしいこと。
そうわかってても
神さまを知らなければ
そういう言葉を気にするしかないけれど、
私たちには神さまがいる。
ほんとの私をちゃんと知っててくれる
神さま。
なんてありがたいんでしょう!
その神さまを知ってるからこそ、
ふり回されないのと同時に、
自分が口にする言葉にも
うそや見せかけがないように。
少しでも真心と真実を
こめることができるように。
今日も1日
神さまに守ってもらいましょう。
ほんとうの平等ってなんだろう?
「彼らは、上の者も下の者も、
達人も弟子も、みな同じように
任務のためのくじを引いた。」
(Ⅰ歴代25:8)
上の者と下の者。
達人と弟子。
階級や身分がちがったり
経験年数や能力がちがったり
人にはいろいろなちがいがあります。
人間の社会では、
そのちがいがその人の価値を決める
と思っている人がたくさんいる。
だから上(と思っている)人は
下(と思いこんでいる)人を見下げたり、
下(と思っている)人は、
上(と感じる)人をうらやんだり、
自分なんてどうせ、と思ったりする。
でも、神さまの目から見たら
上も下もない。
“みな同じ”。
えー、でも、
明らかたくさん持ってる人と
そうでない人がいるよね。
それでどう同じなの?
という疑問がわくかもしれません。
そもそもほんとうの平等って
なんだろう?
持っているものがちがう。
それは事実。
でも持っているかどうかは
神さまが価値を決める基準では全くない。
持っていると言っても、
それはその人がえらいからじゃなく、
もともと神さまからもらったもの。
神さまはもらったものを
ふさわしく働かせているかどうか。
それをいつも見ています。
そして、大きい小さいに関係なく、
ふさわしく働かせたことを
いいね!とほめてくれるのです。
その評価だけが天国でも通用する評価。
過ぎ去る人の評価に
ふりまわされず、
自分のベストを尽くせばいい。
今週もちゃんと見ていてくれます。