せっかくの計画がいきるように
「わたし自身、
あなたがたのために立てている計画を
よく知っている…。
それはわざわいではなく
平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を
与えるためのものだ。」
(エレミヤ29:11)
めいっぱい楽しもうと
みんなでいろいろ練った
キャンプの計画。
でもせっかくの計画も、
みんながそれに沿って行動してこそ、
いきてくるもの。
合わせる気持ちがなかったら、
どんなにすばらしい計画も
台なしになってしまいます。
神さまは私たちのために
すばらしい計画を
立ててくれています。
平安と将来と希望を与えてくれる
その計画は
もうばっちりでき上がっていて、
手配はすべて整い、
準備も全部すませてくれています。
あとは私たちが
それに沿って行動するかどうか。
決めるのは私たち自身です。
私たちは結果の方ばかりに
目を取られがちだけれど、
うまくいかないじゃん。とか
こんななの?とか言う前に、
計画にちゃんと沿っているかどうか。
そこをチェックしましょう。
神さまの計画にのっていることが
確かなら、
今はまだ結果が見えなくても
心配はいりません。
神さまの計画は
必ず実現するものだからです。
平安と将来と希望。
私たちにも必ず実現します。
自律から自立へ
「これらの日の後に、
わたしがイスラエルの家と結ぶ
契約はこうである。……
わたしは、わたしの律法を
彼らのただ中に置き、
彼らの心にこれを書き記す。」
(エレミヤ31:33)
緊急事態宣言が
全国的に解除になりました。
やれやれ。
と言いたいところだけれど、
油断は禁物。
ウィルスがなくなったんじゃないし、
薬やワクチンも
まだこれからです。
これまでは「出かけないで」
っていう指示を
ひたすら守ってればよかったけれど、
これからは今までよりも
自分で考えて自分で行動することが
大事。っていうことですね。
クリスチャン生活にも
通じるところがあるかなと思います。
こうしなさい。ああしなさい。
と言われてそれを守る。
自分で考えなくてもいいから
ある意味簡単です。
最初はそれも必要でしょう。
でもそれでは
いつまでも言ってくれるだれか
がいてくれないとできない。
ということになってしまいます。
うまくいかないのも
だれかのせいになってしまいます。
自分で聖書を読み、お祈りして考え、
自分に対する今のみこころが
わかるようになる。
それが私たちの目ざすべきところ。
神さまとの関わりは
他のだれかと同じかどうかは
ある意味関係ありません。
自律から自立へ。
今日も少しずつでも
前に進めますように。
しるしはそこらじゅうに
「わたしは近くにいれば、
神なのか。―主のことば―
遠くにいれば、神ではないのか。
人が隠れ場に身を隠したら、
わたしはその人を見ることができないのか。
―主のことば―天にも地にも、
わたしは満ちているではないか。
―主のことば。」
(エレミヤ23:23,24)
ウィルス感染防止のために、
病院や施設では
外出も面会も禁止になって
もう3か月になります。
教会の人はもちろん
家族とも会えず、自分ひとり。
そんな中で
「逆に神さまを近く感じる」
と、ある人が教えてくれました。
外には行けないけれど
窓から季節の移り変わりをながめ、
夜には電気を消した後、
窓のカーテンをあけて
夜空をながめるのだそうです。
「そうして自然が変わらずに
生きていることに、
神さまのすばらしさ、
力の大きさを感じるんですよ。
花が咲いても、
まったく気がつかない、
興味もない、っていう人も
いますけどね。」
電話越しだから見えないけれど、
微笑んでいる顔が
目に浮かびました。
私たちがどんな状況に置かれていても、
神さまの目がとどかないところは
ありません。
見てほしいのにだれもいない。
と感じるときにも、
必ずそこにおられます。
逆に見てほしくないから隠れよう
としても、
隠れられるところもない
わけだけれど・・・。
そして私たちの
心の目が開かれるなら、
たとえそばにだれもいない所にも、
神さまがいるしるしは満ちています。
今日も私がいるそこにいてくれる
神さまを感じながら過ごせる
1日でありますように。
一石三鳥
「また、工事する者に
支払うように金を渡した人々が
清算を求められることはなかった。
彼らが忠実に働いていたからである。」
(Ⅱ列王12:15)
それなりに仕事はできるんだけど、
なにかどこかに
もやがかかってる感じがする。
ということがあります。
いろいろ発覚して
やめることになったと聞くと
やっぱりね・・・ってなる。
仕事はできないより
できたほうがずっといい。
でもいちばん大事なことは、
クリアだ。ってこと。
あの人に任せておけば
ぜったいにごまかしや不正はしない。
っていう信用のことです。
そしてこれはクリスチャンこそが
だれよりも持てる特技。
のはず。
だって、だれも見ていなくても
全部見ている神さまを
知っているんですから。
神さまの前に真実であれば、
いつ人に裏を見られても心配ないから
堂々としていられるし、
人に誤解されることがあっても
ちゃんとわかっててもらっている、
っていう安心感を持てる。
神さまを意識して歩むことは、
神さまを喜ばせる。
だけじゃなく、
人の信用を得ること、そして
自分の心の安定に自然につながる。
まさに一石三鳥。
今週も置かれている場所で
真実に。忠実に。
神さまといっしょに歩みましょう。
かもからきっとへ。きっとから必ずへ
「『たとえ主が天に窓を
作られたとしても、
そんなことがあるだろうか。』
…『確かに、あなたは
自分の目でそれを見るが、
それを食べることはできない。』」
(Ⅱ列王7:2)
「たとえ主が天に窓を
作られたとしても、
そんなことがあるだろうか。」
大飢饉が起きた上に敵に攻められ、
食糧が尽きかかっていたとき、
「あすは食べられるようになる」
って預言者が言ったら、
王の家来が返したことば。
つまり、いくら神さまでも、
そんなことはできないよね。
ということです。
実際は、神さまが言ったとおりに
なりました。
でもこれを言った本人は
お腹がすいたまま
死ななければなりませんでした😢
「たとえ神さまでも。」
私たちも、
“いちおう”お祈りはしてるけど
心の底ではこれはまずムリだよな
と思っていること、
ないでしょうか。
けっこうみんなのあるあるじゃないかな
と思います。
でも、「いくら神さまでも」。
これは決して言ってはいけないことば
だとも思います。
じゃあ、建前で装い続けるの?
そういうことでもありません。
信じきれたらどんなにいいかと思うけれど
信じきれない。
まずその信じきれないという
自分の心の状態を
正直に神さまにお祈りしましょう。
そして信じる者になれますように。
と心から願いましょう。
そうできるように助けてください
と心から祈りましょう。
神さまでもできるまい。
ではなく、
神さまならあり得るかも。
かもから、きっとへ。
そして神さまだから必ずできる。へ。
私たちの信じる心が
一歩前へ進む1日でありますように。