余分がなかったとしてもだいじょうぶ
「主が地の上に雨を降らせる日まで、
そのかめの粉は尽きず、
その壺の油はなくならない。」
(Ⅰ列王17:14)
神さまのために働いているなら、
飢饉が来ても
自分の食べ物だけはたくさんある。
今で言うなら、
大地震が来ても家はくずれず、
津波が来ても押し流されない。
台風の大風が吹いても
何も吹き飛ばされない
病気が流行っても
予防しなくてもうつらない…
というわけではありません。
大預言者エリヤでさえ、
自分だけは食べ物があって
わざわいを受けている人たちを
余裕でながめていた
のではありませんでした。
でも、かめの粉は尽きず、
壺の油はなくなりませんでした。
そこには“余分”と言えるものは
ぜんぜんなくて、
いつもあと1回分が残っているだけ。
でもそのあと1回分が
わざわいが終わる時まで
なくなることがなかったのです。
余分がないと不安。
今まで豊かな社会に生きてきた私たちは
そうかもしれないけれど、
もしかするとこれからは
その“余分”がない社会になっていく可能性も
あります。
でも、かめの粉は尽きず、
壺の油はなくならない。
尽きない=なくなってしまわない。
余分がなかったとしても
だいじょうぶ。
神さまは私たちに
なくてはならないものを
必ずちゃんと与えてくださいます。
ほんとうになくてはならぬものって
なんだろう?
今はそれを考えるのに
神さまが与えてくれたいいチャンス。
お祈りしながらよく考えてみましょう。
永久に幸せに
「彼らの心がこのようであって、
いつまでも、わたしを恐れ、
わたしのすべての命令を
守るようになってほしい。
そうすれば、彼らもその子孫も
永久に幸せになる。」
(申命記5:29)
このみことばで、
聖書がいちばん言いたいのは、
「わたしを恐れ、
わたしの命令を守るようになってほしい」
というところでしょう。
でも今日注目したいのはその後。
「そうすれば、彼らもその子孫も
永久に幸せになる。」
神さまが何か命令している
と聞くと人は、
また自分をしばろうとしている。
窮屈な思いをさせようとしている。
自分の思いどおりにして
いい気持ちになろうとしている。
…などと感じてしまう。
なぜなんでしょう?
それはきっと私たち自身が
そういう心の持主だから。
自分がそうだから相手もそうだ、
と思ってしまうのです。
相手が人間だったら
それが合っていることも
あるかもしれません。
でも神さまはちがいます。
神さまが「こうした方がいい」
「こうしなさい」と言うのは、
ぜんぶぜんぶ私たちのため。
私たちが「永久に幸せになる」ため。
神さまの得のためではありません。
どうなったって知らない、
と思うなら、放っておけばいい。
でも、それじゃ私たちが滅びてしまう。
だから神さまは
人間がスルーしても、いやな顔をしても
あきらめないで言ってくれる。
普通の人ならとっくに、
じゃあもう知らない。好きにすれば?
って言ってても不思議じゃない。
神さまの忍耐にはほんとに感謝です。
今日神さまが
かけてくれている声はなんでしょう?
その声に耳を傾けて、
1日を過ごしましょう。
永久に幸せになれるように。
大事なのはその後
「ヨシャファテは恐れた。
そして心に決めて主を求め、
ユダの全土に断食を呼びかけた。」
(Ⅱ歴代20:3)
自分ではとても太刀打ちできない。
そういう問題に直面したとき、
こわくなって
どうしよう💦と動揺する。
それはふつうのことです。
神さまを信じてるから、
なにがあっても
どうしよう😨とも思わない。
神さまを信じる信仰は、
私たちをそんなふうな無感覚、能天気
にするものではありません。
だけど大事なのはその後。
ヨシャファテ王は、
“心に決めて”主を求めました。
お祈りして神さまに助けを求め、
信頼してゆだねる。
それは、いつのまにかではなく、
私たちがそうしようと決めてすること。
でも、お祈りしても、
また心配になったり、
またこわくなったりする。
「信じます」と口では言うけど、
ほんとは信じきれてない。
そしたらどうする?
そしたらもう一度
やっぱり自分は神さまに信頼する。
と決めること。
そしてお祈りすること。
心配だ。こわい。という間、
あくまでそうする。
そうしていくうちに、
“神さまに信頼する”という
私たちの心が定まっていきます。
これは、どうしたらできる?
といくら考えても、だれかに聞いても
それだけではできない。
自分でやるしかない世界。
でも本気でやるなら必ず報われる。
今日もしっかり決めて
信じてゆだねますとお祈りして
1日神さまといっしょに歩みましょう。
また始めます。
「しかし、
主は私とともに立ち、
私に力を与えてくださいました。」
(Ⅱテモテ4:17)
お休みいただいてごめんなさい🙇
結局よくわからないうちに
復旧したので、また始めます。
ネットがつながらない。
それだけのことなんだけど、
なんだかちょっとだけ
取り残されたような気分でした。
プロバイダーさんは
「連休中はお休み」という留守電。
それって、このまま3日間てこと?
たかがネット、たかが3日間。
ほんとはそんなに
大したことないことのはず
なのにね。
パウロ先生は、
ネットがつながらないどころじゃなく、
リアルに取り残されて
ほんとにひとりぼっち。
しかも牢屋に閉じ込められていました。
どんなに心細かったことでしょう。
でも、パウロ先生は知っていました。
神さまは見捨てない。
たとえだれもいなくても
自分といっしょに立ち上がってくれる。
だから力づけられ、
こらえることができました。
自分たちの現実になるとは
あまり考えてもみなかったことだけれど、
“隔離”っていうことばがリアルになり、
もはや病院や施設では
家族でも会えなくなっています。
私たちもいつ“独り”っていう状況に
置かれるかわからない。
自分は元気でも、お仕事の都合などで
ひとりで過ごす時間が増えている人も
いるでしょう。
それは今回のようなことに限らず、
わかってくれる人がだれもいなくて、
自分はひとりだな・・・
と感じるときも同じかなと思います。
でも私たちは決して
ほんとのひとりぼっちにはならない。
なぜって、そこがどこであっても、
神さまは必ずいっしょにいてくれる。
必要な力は必ず与えてくれる。
信じているかぎり、
その事実はけっして変わりません。
今日も私たちはひとりぼっちじゃない。
だからだいじょうぶです。
前を見て進んで行きましょう。
あとは楽勝
「競技をする人は、
あらゆることについて
節制します。…私たちは
朽ちない冠を受けるために
そうするのです。」
(Ⅰコリント9:25)
東京オリンピックが
ひとまず一年延長になりました。
休みたい日も休まずトレーニングを重ね、
食べたいものもがまんして
その日を目ざしてきた
選手たちには、
気の毒としか言いようがありません😢。
金メダルを取る。
その目標があるからこそ、
他のやりたいことや食べたいものを
ずっとがまんしてがんばってきたのでしょう。
目標がはっきりしていれば、
いやなこととも
苦痛とも感じないで
がまんすることができます。
私たちにも冠が待っている。
と聖書は教えてくれます。
それは、生きている間
真実に神さまといっしょに歩んだ人に
「よくやったね」
と神さまがくれる“朽ちない冠”。
輝きを失わない、
いつの間にか忘れ去られることもない
冠です。
それをもらえるということが
どんなにすごいことか。
それがわからないと、
今のいろんながまんが
ものすごくいやなこと、とんでもない苦痛
に感じてしまうかもしれません。
つまり大事なことは、
その冠の価値がほんとにわかる。
ってこと。
それさえわかれば、
あとは楽勝です。
まだ微妙という人は、
わかることができるように
してくださいと祈りましょう。