この分かれ目から
「道の分かれ目に立って見渡せ。
いにしえからの通り道、
幸いの道はどれであるかを尋ね、
それに歩んで、
たましいに安らぎを見出せ。」
(エレミヤ6:16)
次々とやることがあって、
ゆっくり考えてる暇なんかない。
私たちはこのところずっと
そういう時間を過ごしてきたと思います。
でも今年は、
GWだけど「ステイホーム」。
半強制的にみんなが
立ち止まらされています。
やることがなくてつまらない、
暇すぎて死んじゃう
なんてゲームやYouTubeで
ただ時間をやり過ごすのはもったいない。
今まで時間がなかったから
考えられなかったこと、
時間がないせいにして
考えないことにしていたことを
考えるまたとないチャンス☆
言ってみればこれは、
これからもこれまでのように
生きていくのか。
見つめ直す分かれ目。
ほんとうの幸いは
昔から変わらない道、
神さまといっしょに歩む生き方にある。
それはもう何度も聞いていて、
ある意味“耳たこ”で知っている。
でも大事なことは
それを知ってることじゃなくて
そこに「歩む」こと。
知ってることはまちがいない。
でも「歩む」っていう点では
どうだったか?
分かれ目に立って見渡したとき、
もう歩んでいるなら、
このままずっと続けていきましょう。
でも知ってるだけだったかも
と感じるなら、
この分かれ目からほんとに歩む道へと
踏み出すことができますように。
ただそばにいる
「彼らが苦しむときには、
いつも主も苦しみ、
主の臨在の御使いが彼らを救った。」
(イザヤ63:9)
ある人の友だちの小さな子が
突然の事故で亡くなり、
友だちはあまりのショックと悲しみで
ご飯も食べられないし、眠れない、
という状態になってしまいました。
その人は友だちを
何とかして慰めたいと思いましたが、
かけることばが見つかりません。
「だいじょうぶ?」も、
「わかるよ」も
そんなわけない、ってわかってる。
何か言ってあげたいのに
何も言えない。
こんなんじゃ行っても意味ないかな
と思いながら、
とにかく行かなくちゃ、と行ったはいいけど、
ただいっしょに泣くしかできなかった
そうです。
でもあとになって、
その友だちが言ったんだって。
何も言わなくても
ただそばにいてくれたことが
ほんとに慰めだった。って。
「主の臨在の御使い」が
苦しみの中でもいつもそばにいる。
も、そういうこと。
どんなことばも届かないようなときにも
必ずそこにいてくれる。
信じれば何の苦しみもなくなる。
いろんな“宗教”が
そう言って人を誘うけど、
そんなことは絶対にありえない。
でも苦しむことがあったとしても、
いつもそばにいてくれる神さまを
知ることができれば、
私たちは必ずもちこたえることができる。
そのことが必ず力になる。
今日も神さまは
私たちのそばにいてくれています。
ぜったいに見放さないし、見捨てません。
いろいろ不自由だけど、
この方に心を向けながら
今日も1日乗り切りましょう。
半分無理やりだろうとかまわない
「むしろ私を選んで、
主の民イスラエルの君主に任じられた
主の前だ。
私はその主の前で喜び踊るのだ。」
(サムエルⅡ6:21)
どうして自分は
クリスチャンになったんだろう。
神さまを信じることができたんだろう。
不思議に思うことはありませんか?
ほかに選択肢なかったでしょ。
って思う人もいるかもしれないけど、
じゃあなぜ自分は
その環境に置かれたの?
人間的に見れば、
自分より優れた人はいくらでもいる。
自分より魅力がある人も
いくらでもいる。
なのに、なぜ自分?
なぜと考えても、
答えはわからない。
でも、ほかに選択肢がなかった、
っていうことも含めて、
全部の中に神さまの恵みがある。
何がきっかけだろうと、
どういういきさつだろうと、
自分からだろうと、
半分無理やりだろうと、
かまわない。
とにかく今、
神さまを信じて罪がゆるされ
永遠のいのちをもらっている。
それはあり得ない奇跡
って言ってもいいくらいありがたく、
すごいこと。
電気がなぜつくか知っていますか?
きっと知らない人がほとんど。
だけど、なぜだかわからないから使わない、
なんて人はいない。
なぜだかなんて知らないけど、
コンセントにつなげば使える。
だから使っている。
今、恩恵を受けることができている。
それがいちばん大事。
ほんとによかったね!
今日も何よりそのことを感謝して、
1日を過ごしましょう。
「どうせ」は、いらない
「わたしの家は
あらゆる民の祈りの家
と呼ばれるからだ。」
(イザヤ56:7)
私たち日本人は
“自己肯定感”が低め。
とよく言われます。
自分に価値があるとは思えない。
自分なんかいてもいなくても
同じなんじゃないか…。
いろんな原因があるんだろうけど
人と同じかどうかを
気にすることが
けっこう関係してるかな
と思います。
みんなと同じだから
安心する。
みんなとちがうから不安になる。
だから
人にあって自分にないものを
見つけると、
どうせ自分なんて
と思ってしまう。
でも、
「どうせ」は、なしだよ。
と言ってるのが今日のみことば。
このみことばは
教会は祈りの場所。っていう意味で
使われることが多いけど、
文章の流れを見ると
大事なのは「あらゆる民の」
っていうところ。
何人(なにじん)だから。
こういう職業だから。家柄だから。
あれを持ってるから。持ってないから。
そういうのは一切関係ない。
神さまに信頼する心があれば
だれでもお祈りできる。
そしてちゃんと聞いてもらえる。
そのお祈りの重さが
だれかと比べて軽いなんてことは
あり得ない。
今日も神さまは私たちを、
他のだれとも同じに貴い。
って言ってくれています。
あふれる愛の心で
お祈りを聞いていてくれます。
むしろ逆
「ダビデは主に伺った。
…ダビデが主に伺うと…。」
(Ⅱサムエル5:19,23)
「同じことを何度も聞くな。
いいかげん
自分でできるようになれ。」
世の中だったら、
「どうしたらいいですか」
ってあんまり聞くと、
覚えようとしてないんじゃないか
と受け取られてしまう可能性が
大きいです。
一度聞いて教えてもらったら
次からは自分でできるようになる。
それが世の中でいう成長。
でも相手が神さまの場合は、
ちょっとちがう。
というより、むしろ逆。
ダビデは神さまに聞いて
ペリシテ人と戦い、勝ちました。
でもペリシテ人は
あきらめずにまた攻めてきました。
この前と同じ相手だから
どうせまた同じ? この前の続き?
そうではなく今回もダビデは
また神さまに聞きました。
すると神さまは
前とはちがう方法を教えてくれて、
ダビデは今度も勝つことができました。
世の中では
二度目は聞かないのが成長。
でも信仰の世界では、
どれだけその都度聞けるようになるかが
成長のしるし。
何百回聞いても、
神さまは「またか」
と言うことは決してありません。
いつもやっているあたり前のことでも、
お祈りして助けを求めてから。
今日もいつも通りの1日かもしれない。
でも助けてくださいとお祈りしながら
歩みましょう。