「はじまりを造る神」
 
 初めに、神が天と地を創造した。
・・・神の霊が水の上を動いていた。・・・
(創世記1:1-2)
 
 聖書では神が「はじめ」です。
 
神の霊は創造力を大爆発させ、
何もないところに形をつくりました。
 
何もないところから造り出すことができるのは神さまだけです。
 
もし、
わたしたちが「自分には何もない」と失望しても、
神さまはそのわたしにも新しいものを生み出すことができます。
 
 「霊が水の上を動いていた」と言っても、
幽霊がさまようようなフワフワとした動きではありません。
 
むしろ母鳥が若いヒナの巣立ちを励ます時に舞い上がる様子とにています。
 
そのように、わたしたちが成長するのを楽しみにしながら、
励ましてくださいます。
 
(TMPL)
 

『さあ。人を造ろう』
 
「さあ人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似せて。」
創世記1:26


 神様は天地創造されたとき、
天体、
植物、
鳥、
魚、
動物は
「種類にしたがって」造られたのに、
人間だけは
「人を」造ろうと言われました。

 それも神様のかたちに
似せて造られたのです。

 私たちは神様にとって
被造物の中で特別な存在です。

 ほかの動物にはない
能力をたくさん
与えてくださっています。

 私たちは神様に愛され、
信頼されています。

 世界中の70億の人の中で、
神様にとって、
「どうでもいい人」はいません。

 神様が大切だと
思ってくださっている
「自分」を、
自分も大切にしましょう。

(かわこ)
 

「ひじょうによいもの」
 
 それは非常に良かった。
(創世記1:31)
 
 神さまは最初の三日間で、
さかい目がないものを二つにわけました。
 
1日目は光と闇、
2日目は海と空、
3日目は海と陸(ついでに植物)。
 
ぼんやりとしたものがはっきりするとき、
とても気持ちがいいものです。
 
すっきりとした世界にはあたらしいものをつくりやすくなります。
 
そうして、
4日目は昼の光(太陽)
と夜の光(月、星)、
5日目は水と空の生き物、
6日目に地の生き物が造られました。
 
そして最後の感想は「非常によい」でした。
 
 もやもやとした気持ちも神さまの手の中でクリアになっていきます。
 
神さまはわたしたちに「ひじょうによいもの」を見ておられます。
 
自分の中のとてもよいものを見つけてみましょう。
 
(TMPL)
 
 

「休む神さまもすばらしい」
 
第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
(創世記2:2)
 
 ファッション・ショーで、
次々にスーパーモデルが新しいデザインの服を着て出てきます。
 
みな目を奪われます。
 
カメラのフラッシュが光り、
シャッター音がします。
 
最後に服のデザイナーがモデルたちといっしょに出てきます。
 
みんなから拍手喝采です。
 
ウォー、、、パチパチパチ。
 
 休みも、
創造のパズルの大切なワン・ピースです。
 
その日は神の創造のわざに注目するのではなく、
創造された神ご自身に目を注ぎます。
 
最後にライトを浴びるのは神さまのわざではなく、
神さまご自身です。
 
神さまは何もなさらなくても、
ただいてくださるだけで、
すばらしい方です。
 
(TMPL)
 

「本当の満足って?」


「神である主は、土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。
そこで、人は、生きるものとなった。」
創世記27
 
土地のちりに神様の霊が吹き込まれ、
人は生きるものになりました。
 
人間と他の動物の違いは
神様の霊をもっているかどうかです。
 
ヨハネの福音書4章24節に
「神は霊です」とあるように、
神の霊を持つもののみが、
神様を知ることができます。
 
同じ霊を持つので
交わることができるのです。
 
だから、他の動物が一生懸命お祈りしたり、
石でも木でも組み合わせて神様をつくったり、
拝んだりしている姿を見たことはないでしょ。
 
神様を知ることができるということは、
神様は人を
「神様と共に歩むように造られた」
ということです。
 
だから心からの満足は、
人が神様と共に歩むときに与えられるのです。
 
いつも神様に心を向けていますか。
 
日曜日だけのクリスチャンになっていませんか。
 
今日もあなたのすぐ側で
共にいてくださる神様に心を向け、
一日を過ごしましょう。
 
 【タマ】
 

「いのち」
 
「神である主は、
土地のちりで人を形作り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
そこで人は生きものとなった。」
(創世記 2:7)
 
「いのち」って不思議です。
 
私のもののはずなのに、
私の自由にできない、
とても不思議なものです。
 
そして、
とても高価なものです。
 
神さまが人間を創造されたとき、
鼻にいのちの息を吹き込んでくださいました。
 
これが、
人間の始まりだったのです。
 
私たちの中には、
神さまの息が吹き込まれているのです。
 
これは、
植物や虫や動物が持っている生命とは違います。
 
人間は、
神さまにいのちの息を吹き込まれた貴い存在です。
 
だから、
自分で自分のいのちを終わらせたり、
他の人のいのちを勝手に終わらせたりしては、
絶対にいけないのです。
 
神さまがくださったすばらしいいのちを、
もっともっと大切にしましょう、
自分のも、
友だちのも。
 
gsh
 

「いのちの息」
 
 神である主は土地のちりで人を形造り、
その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
(創世記2:7)
 
 人は地のちりで造られましたが、
それだけではまだ動きませんでした。
 
神がご自分の「息を吹き込む」ことで、
人を生きたものとしてくださいました。
 
つまり、主は人をお造りになったはじめから、
ご自身を与えることで、人を生かしてくださいました。
 
 また、
父なる神はひとり子主イエスさまをお与えになりました。
 
さらに、
聖霊を私たちにくださいました。
 
自分自身を与えてくださる神さまの愛は今も変わりません。
 
 (TMPL)
 

「神の知恵を求めましょう」
 
善悪の知識の木からは取って食べてはならない。
それを取って食べるとき、
あなたは必ず死ぬ。
(創世記2:17)
 
 神は人をエデンの園に置かれました。
 
園を流れる4つの川からはさまざまな材料がとれました。
 
それをもとにして物作りの技術を磨き、
能力を高めることができました。
 
神さまは私たちのさまざまな才能を引き出そうとしておられます。
 
与えられた能力を伸ばす努力をしましょう。
 
 一方、
楽園にはいのちの木と善悪の知識の木がありました。
 
いのちは神さまからのもの、
善悪の判断は神の知恵に頼むことを思い出させる木です。
 
どんなに知識が身についても、
神の知恵を求めることを忘れないように。
 
 (TMPL)
 

「自立した人間」
 
  それゆえ男はその父母を離れ、
妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである。
(創世記2:24)
 
 みなさんの将来のパートナーはどんな人でしょうか。
 
神が選んでくださった最高のパートナーと一つになるために、
自立した人間を目指しましょう。
 
たくさんの良いものを両親からいただいてきたでしょう。
 
毎日の必要だけでなく、
ものの考え方、
生き方もそうです。
 
今もいろいろと助けてくださるでしょう。
 
でも、
将来のパートナーと一つになるためには、
お父さん、
お母さんから心も生活も自立していくのです。
 
ですから、
今できることは自分でやりましょう。
 
チャレンジする私たちを主も励まし、
自立する私たちを助けてくださいます。
 
(TMPL)
 

ありのままって気楽
 
「そのとき、
人とその妻は、
ふたりとも裸であったが、
互いに恥ずかしいと思わなかった。」
(創世記225
 
 私は子どもの頃、
あることで大人からほめられたことがありましたが、
だんだんとそれがプレッシャーに変わって行きました。
 
周りの評価に合わせるように、
「良い子を演じなければならない」と思うようになったのです。
 
心の中で「ボクは良い子じゃない!」と叫ぶのですが、
ありのままの自分を出すことができず、
大人になったとき心を病んでしまいました。
 
そんな私をイエスさまはありのまま受け入れてくださいました。
 
イエスさまと同時にありのままで
受け入れ合うことができる友達がいたら心も癒されるでしょう。
 
そういう友達が与えられるように祈りましょう。
 
(友)
 

「心の視力の回復」
 
 ・・・蛇は女に言った。
「あなたがたは、
園のどんな木からも食べてはならない、
と神は、ほんとうに言われたのですか。」
(創世記3:1)
 
 蛇はエバを誘惑し、
神さまのことばを疑わせました。
 
この実を食べるなら、
神のように知恵ある者になれるのに、
神はあなたにそれを隠しているのだと。
 
 しかし、
実を食べて目が開かれた時にお互いを
恥ずべき者としか見ることができなくなりました。
 
神に逆らう心は、
私たちの心の目をゆがめてしまいます。
 
そして、
自分の欠点、
相手の悪いところばかりに目が行きます。
 
イエスさまを信じるなら正しく見る目を取り戻せます。
 
イエスさまがわたしたちを高価で尊いと見ておられるように、
私たちも他の人の良さがわかるように目が開かれます。
 
(TMPL)
 

「お帰りなさい」
 
  神である主は、
人に呼びかけ、
彼に仰せられた。
「あなたは、どこにいるのか。」
(創世記3:9)
 
 善悪の知識の実を食べたアダムとエバは姿を隠し、
造り主である神さまを避けるようになりました。
 
私たちも罪を犯すと人と向き合うことができなくなります。
 
それでも声をかけてくださるのが神さまです。
 
どこにいるのか、
どうしてそうなったのかと呼んでくださるのです。
 
それなのに、
アダムもエバも互いに罪をなすりつけるばかりで、
神のもとに帰るすべを知りませんでした。
 
お互いに非難し合うばかりでは、
問題は解決しません。
 
悔い改めるべき罪があるなら告白しましょう。
 
主イエスのもとに来れば帰る道が見つかります。
 
(TMPL)
 

「神様がわからない」
 
「しかし、
善悪の知識の木からは
取って食べてはならない。
それを取って食べるその時、
あなたは必ず死ぬ」
創世記317


神様はアダムに対し
「エデンの園のどの
木からも自由に取って食べて良い。
しかし、
園の中央にある善悪の知識の木からは
取って食べてはならない。
それを食べたなら必ず死ぬ」
とおっしゃいました。
 
しかし、
アダムとエバは神の戒めを
破り木の実を食べました。
 
何が死んだのでしょうか。
 
まず肉体に死が入りました。
 
だからどんなに健康な人でも必ず死を迎えます。
 
また肉体の死と共に「霊」が死にました。
 
神様を知り、
神様と交わるための霊が死んだため、
人は本当の神様がわからなくなってしまったのです。
 
周りを見渡すと、
死んだ人間が神になったり、
動物が神になったり、
木が神になったりしているでしょ。
 
なぜそのようなものを
拝むのと不思議に思いませんか?
 
あなたにとって最も必要なのは
霊が「いのち」を得ることです。
 
あなたはこの「いのち」を持っていますか?
 
【タマ】
 
 

「開かれた心」
 
・・・罪は戸口で待ち伏せして、
あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、
それを治めるべきである。
(創世記4:7)
 
 カインは主へのささげものを持ってきましたが、
それが受け入れられず、
弟アベルのささげものが受け入れられたことに怒りました。
 
神は罪の告白と悔い改めとをカインから引き出そうとされますが、
カインは最後まで心を閉ざしました。
 
たとえ体は礼拝堂にいても心を閉ざしてしまったら、
そこは、神を傷つけ、
人を傷つける場所になってしまいます。
 
閉じた心には良いアイデアも浮かんできません。
 
いつでも神さまに、また互いに心を開くことができますように。
 
(TMPL)
 

「どんなお嫁さんがいいですか?」
 
 「さて、
人が地上にふえ始め、
彼らに娘たちが生まれたとき、
神の子らは、
人の娘たちが、
いかにも美しいのを見て、
その中から好きな者を選んで、
自分達の妻とした。」
(創世記61,2
 
 結婚を考える兄弟に
こんな質問が向けられました。
 
 「どんなお嫁さんがいいですか?」
長年教会に通い、
よく奉仕する穏やかな彼の答えは…
「きれいな人がいいです」…って、
おい、
そこですか?!と、
思わず突っ込みたくなるものでした。
 
 神様を抜きにして、
自分にとって美しいもの、
好ましいものを、
自分で選びたいという姿勢は、
創世記の時代から続いていて、
「神様ぬき」の悲惨な結果を刈り取っています。
 
 私達の好みのタイプもご存知の上で
祝福を備えて下さる神様を信頼しながら、
周りの人と話したり共感したり、
助け合ったりという練習を積み重ねましょう。
 
 ちなみにこの例話に登場する彼は、
神様を尊んだお嫁さん選びをして、
大きな車にキュートな家族を
乗せて教会に通っています。
 
 なぜ大きな車かというと、
子供3人分の
チャイルドシートが必要だからです。
 
ゆらまり
 

わたしが示す地へ
 
「あなたは、…わたしが示す地へ行きなさい。
…地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」
(創世記1213
 
 自分がだれかの役に立てたとき、
すごくうれしいものです。
 
一人の女性が教会に入ってきたとき、
そこにいた車椅子の方が笑顔で迎えました。
 
その方は車椅子の方の笑顔でとても心が温められ、
今度は自分が車椅子の方の心を温めてあげたいと思い、
冬だったのでマフラーを編んでプレゼントしました。
 
小さなエピソードですが、
「あなたによって」神さまの恵みと祝福が注がれる実例として心に残っています。
 
私たちによって人々が祝福を受けることができるってすばらしいことだと思いませんか。
 
(友) 
 

「素通りしないでください」
 
そして言った。
「ご主人。お気に召すなら、
どうか、あなたのしもべのところを
素通りなさらないでください。」
(創世記18:3)
 
 日中の暑いとき、
3人の旅人がアブラハムの所に来ました。
 
昼寝の時間だったでしょう。
 
しかし、アブラハムは喜んで迎えました。
 
今でも中東の遊牧民は見ず知らずの旅行者をもてなすそうです。
 
アブラハムは旅人たちを敬い、
自らしもべとなってもてなしました。
 
ただの旅人ではなく、
主であると分かったからです。
 
神さまを喜んで迎えたいと願うアブラハムの心が伝わってきます。
 
私たちも今日、
心から主をお迎えし、
いっしょにいることを願いましょう。
主は素通りせずに、
私たちのところにとどまってくださる方です。
 
(TMPL)
 

「心を分け合う真の友」
 
 主はこう考えられた。
「わたしがしようとしていることを、
アブラハムに隠しておくべきだろうか。…」
(創世記18:17)
 
 神さまはアブラハムとともに
ソドムとゴモラという罪深い町を
見下ろしておられました。
 
そこで行われている罪を確かめ、
もしそのとおりならば滅ぼそうと計画しておられたのです。
 
神さまは誰も知らないこのさばきの計画を
アブラハムには打ち明けるべきだとお考えになります。
 
それは、
神さまがアブラハムを親友とお考えだったからです。
 
心の重荷を分かち合うことのできるつながりを、
神さまは私たちにも求めておられます。
 
そして、
私たちもお互いに重荷を分かち合うための友です。
 
(TMPL)
 

「恐れないで勇気を持って」
 
アブラハムは答えた。
「…人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。…」
(創世記20:11)
 
 アブラハムは、
美しい自分の妻サラを見た
アビメレク王が妻を手に入れるために、
自分を殺すのではないかと恐れて、
サラが妻であることを隠しました。
 
そのため、
アビメレク王はサラを宮廷に召し入れます。
 
その結果、
神さまはアビメレクに仕える女性たちに
子どもができないようにされました。
 
恐れる心からついたうそが、
多くの人を巻き込んで、災いとなりました。
 
私たちには、
真実を愛し、
味方となってくださるイエスさまがおられるのですから、
勇気を持って正直に話しましょう。
 
(TMPL)
 

ただ、黙って抱きしめてほしい
 
アブラハムの正妻サラは、
エジプトの女奴隷ハガルによって、
アブラハムに子どもを産ませました。
 
ところが、
自分からイサクが誕生するや、
サラはハガルとその子イシュマエルを
追い出すようにアブラハムに訴えたのです。
 
見捨てられた親子が荒野をさまよい歩いた末に、
いのちも枯れて、
ついにイシュマエルが最後の叫び声をあげたとき、
神様は母ハガルにおっしゃいました。
 
「行って、
あの子を抱き上げ、
お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい!」
(創世記2118節:新共同訳)
私はこの訳と出会って感動しました。
 
神様は遠い超越者ではなく、
天の父なる神様なのです。
 
神様も親だからこの言葉が出てきたのだと思いました。
 
当時16歳だったイシュマエル。
 
皆さんの本音も「黙って抱きしめて!」かもしれませんね。
 
(グッドビレッジ)
 

●イサクを連れて来なさい
「神は仰せられた。
『あなたの子、
あなたの愛している
ひとり子イサクを連れて、
モリヤの地に行きなさい。
そして…
イサクをわたしにささげなさい。』」
≪創世記222
 
小テスト、
中間テスト、
期末テスト、
入学試験、
学生生活には
たくさんの試験があります。

 私たちの人生にも、
神様の与えられる
大事なテストがあるのです。

 アブラハムにとってそれは
最大にして、
最後のテストでした。


神様は私たちにも
「イサクを連れて来なさい」
と言われることがあります。

 それは私たちの
一番大切にしているもの。

 決して離したくないもの。

 これだけは、
と握り締めているものです。

 でも、
それが神様よりも
大切なものになっていると
したらどうでしょう。

 神様は、
その物にではなく、
あなたの心がどこにあるかに、
目を留めておられるのです。


大切な人生のテストに、
あなたはどんな答えを出しますか?
 
『ジョン』
 

準備は完璧
 
「主の山の上には備えがある。」
(創世記22:14)
 
しっかり準備をしてくれる友だちはありがたいものです。
 
学校の文化祭や修学旅行など大きな行事がある時には、
これほど任せて安心で、
心強い友だちはいないでしょう。
 
聖書を見ると、
神さまの準備ほど完璧なものはありません。
 
どのようなところを見ても、
足りないものは何一つなく、
その上、
ベストのタイミングで備えてくださいます。
 
これほど心強いお方はいませんね。
 
私たちはどんなときでも安心して神さまとともに歩いていきましょう。
 
(than)
 
 

「与えられた恵みを軽蔑しない」
 
こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。
(創世記25:34)
 
 イサクとリベカにふた子が生まれました。
 
ヤコブは同じ日に生まれながら、
長子の権利を持つエサウをねたんでいました。
 
ヤコブは兄に煮物と引き替えに長子の権利を渡せと言います。
 
お腹がすいたエサウは煮物を食べると
いとも簡単に長子の権利をヤコブに与えてしまいます。
 
お腹のすいた兄を誘惑するヤコブは確かにずるいのですが、
聖書は長子の権利を軽んじたエサウを責めています。
 
神さまから与えられた救いの恵みの大きさを忘れ、
目先の楽しみと交換するのは愚かなことです。
 
イエスさまを信じて、
神の子とされた祝福をしっかりと握っていきましょう。
 
(TMPL)
 

「忍耐して待つ人」
 
イサクはそこから移って、
ほかの井戸を掘った。
(創世記26:22)
 
 イサクの家畜は増えていきましたが、
水がなくなればすべて死んでしまいます。
 
井戸はイサクにとっていのちでした。
 
ところが、
イサクは苦労して掘り当てた井戸をことごとく、
他人に奪われます。
 
掘り当てた井戸に、
エセク(争い)とかシテナ(敵意)と名をつけるほど、
井戸を横取りされたイサクの心は深く傷つきました。
 
それでも彼は井戸を掘り続けました。
 
粘り強く耐え忍んだイサクは、
だれにもじゃまされない自分の井戸を掘り当てました。
 
そして、
いのちをつないでくださった神さまをほめたたえています。
 
だれも奪えない心の泉はわたしのためにもそなえられています。
 
(TMPL)
 

●井戸掘りイサク
 
「今や、
主は私たちに広い所を与えて、
私たちがこの地で
ふえるようにしてくださった。」

《創世記26:23》
 
イサクと言ってどんなことを
思い浮かべますか?

 印象に残らない、
陰の薄いイメージがあるでしょうか。

 聖書はイサクを
井戸を掘る人として
描いています。

 彼が井戸を掘るたびに、
ペリシテ人がいちゃもんを
つけてきました。

 彼は自分の正当性を
主張することもできたでしょう。

 しかし、
争うことをせず、
それを譲って、
別の井戸を掘りました。

 またしても、
またしても…。

 しかし、
そんな彼に、
神様は、
最終的に「広い所」
を与えてくださいました。


彼の歩みは消極的に
見えるかも知れません。

 しかし、
それは自分の力で
何とかしようとするのではなく、
全面的に神様に委ねて、
神様の恵みによって生きるのだ、
という生き方だったといえるでしょう。

 私たちはどうでしょうか?
 
 『ジョン』
 

「天から立てかけられたはしご」
「「見よ。
一つのはしごが地に向けて
立てかけられている。」
(創世記28:12)
 
 ヤコブは兄だけに約束された祝福を
自分のものにする為に何度も計画を立て、
それを実現させました。
 
 下から上へ、
考え抜いた一段一段を登りつめた、
と思いましたが兄の怒りをかい、
見知らぬ土地にたったひとりで向かいます。
 
 登ってきたはしごが空中分解して
地面にたたきつけられたようなもの。
 
 でもそこで、
天から地へ、
上から下へ立てかけられた不思議なはしごと、
すぐそばに立っておられる主を発見したのです。
 
 部活の試合や試験という
はしごを登り切れずに
転落してしまったと感じる時こそ、
天から立てかけられたはしごを降りて
すぐそばに来て下さる神様に
気づくチャンスです。
 
ゆらまり
 

『神様を発見』
 
「まことに主が
この所におられるのに、
私はそれを知らなかった。」
創世記28:16


 私たちは毎日勉強しています。

 きのうまで知らなかった
新しい知識が
きょう私たちの頭の中に
蓄えられます。

 それでも、
まだ知らないことが
たくさんあります。

 毎日新しい発見があったら
楽しいですね。

 さて、
ヤコブは「神様がここにおられる」
ということを、
この時まで知らなかったことに、
今気づきました。

 あなたは、
神様がここにいてくださる
ということを
実感したことがありますか。

 今実感していますか。

 もし私たちが気づいていなくても、
神様はきょう、
私たちと一緒にいてくださいます。

(かわこ)
 

「今日一日が天国につながっています」
 
 ヤコブは眠りからさめて、
「まことに主がこの所におられるのに、
私はそれを知らなかった」と言った。
(創世記28:16)
 
 ヤコブは家族から離れ、
一人旅をします。
 
生まれて初めて一人きりになりました。
 
心細い思いで、
野宿をしたヤコブは、
天使が上り下りするはしごの夢を見ました。
 
神さまはヤコブとともにおられることと繁栄を約束されました。
 
ヤコブは神がともにおられることを知って励まされ、
主を礼拝します。
 
何気ない今日の生活の中でさびしさを感じるときも、
私たちは決して一人ではありません。
 
だれも注目してくれなくても、
神さまは見ていてくださいます。
 
私たちが今日生活する場所は
神さまがおられる天とつながっています。
 
(TMPL)

「主と共に」
 
「主がヨセフとともにおられたので、
彼は幸いな人となり、
そのエジプト人の主人の家にいた。」
若い時に本当の神さまを知らない異国で、
一人で生きることになったヨセフは、
回り中イエス様を信じない人たちに
囲まれて生きる私達のモデルかもしれない。
 
『ご存知のとおり、
僕は酒も飲まなきゃ、
日曜は絶対に空きませんよ。』
『それでも良いからお願いします。』
と頼まれて、PTAの会長を務めることになった。
 
祭りや古い伝統、
因習の強いこの土地で、
この職務は思った以上に大変だ。
 
しかし、
そんな土地柄で牧師と知りつつ依頼されたのは、
この地で地道に続けられた種蒔きの結果の一つと考えた。
 
異教の地でヨセフを励まし、
導き、栄えさせた主が
私達と共に居られる事を信じて、
今日もチャレンジ。
(創世記39:2)
 
  びい
 

「苦しみの中にも」
 
「こうして彼は監獄にいた。
しかし、
主はヨセフとともにおられ、
彼に恵みをほどこし、
監獄の長の心にかなうようにされた。」
創世記392021
 
神様が共にいるならば、
困難や苦しみや悲しみが
無くなるかのように
思うことがあるでしょう。
 
また困難が続くと神様は
私と共におられないのではと
疑うこともあるでしょう。
 
しかし聖書はそう教えていません。
 
ヨセフは家族から遠く離れた
エジプトに奴隷として売られ、
ついには牢獄に入れられます。
 
人の目から見るなら、
ここはヨセフの人生において
最も悲惨な時期です。
 
しかし、
そんな絶望の時期でも、
主はヨセフとともにおられたと聖書は書き記しています。
 
あなたは今、
困難な中を通っていますか。
 
それでも神様はあなたとともにいることを信じましょう。
 
そして心に平安と困難を乗り越える力を求めましょう。
 
神様はこの困難の先に、
大きな計画を持っておられます。
 
【タマ】
 

「垣根を越える枝」
 
 「ヨセフは実を結ぶ若枝、
泉のほとりの実を結ぶ若枝、
その枝は垣を越える。」
(創世記4922
 
 これは、
ヤコブが地上生涯を終える際、
12人の子供達を祝福したもののうち、
ヨセフに対して語った言葉です。
 
 ヨセフは、
生まれ育ったイスラエル地域で、
10人の兄に仕えつつ生きるという
垣根の中にいた人でしたが、
色々な理由から兄達にうらまれ、
エジプトに売られるという
苦しみを体験しました。
 
 でもその事が実は、
とても大きな祝福につながりましたよね。
 
 私達はとても心が狭く、
自分の周りに
すぐに垣根を造ってしまいますが、
神様のみ業は、
人間が張り巡らした
小さな垣根をはるかに越えて、
広がっていくものです。
 
 今見える事だけでがっかりせず、
垣を越える神様の「枝」が
伸びていくのを、
落ち着いて待っていましょう。
 
ゆらまり