「⑧ビーチボール」

 
「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。
これをつかんでいる者は幸いである。」
(箴言3:18
 
 神さまからの知恵は、
イエスさまによって私たちに与えられます。
 
他のものにしがみついていると大変なことになります。
 
 私は、
川でビーチボールを抱えて泳いでいて、
溺れたことがあります。
 
ビーチボールが、
くるんと回転して、顔が水の中に浸かってしまったのです。
 
近くにいた人に気付いてもらって助かったのですが、
そこは、背の立つ深さでしたから、
ビーチボールを手放しさえすれば自分の足で立つことができたのです。
 
手放すものは直ぐに手放して、
イエスさまのいのちを、
しっかり、つかんで生きましょう。
 
(ふ)
 

「あすではなく、きょう」

 
「あなたに財産があるとき、
あなたの隣人に向かい、
『去って、また来なさい。
あす、あげよう』と言うな。」
箴言3:28
  学生であるあなたには、
普通の「財産」は
まだ持っていないかもしれません。

 
でも、
私たちには神様から
与えられた「良いもの」が
いろいろあります。

 
性格、
才能などなど・・・。

 
それは神様からの
「賜物」です。

 
私たちは財産を
人に分け与える
年齢ではありませんが、
私たちが友だちに
分けてあげられるものが
あるでしょう。

 
助けを必要としている
友だちを助けること、
辛い経験をしている
友だちを励ますこと・・・など、
何かできることが
あるはずです。

 
場合によっては
勇気が要ることですが、
「あとで、今度」
ではなく「いま」
できるといいですね。

 
できなかった後悔を
しないために。

(かわこ) 
 

「神さまの御心を察知する鋭敏な心をもとう!」

 
 「知恵のある人は先を見て動き・・・」 
L.B.箴言1316
 
 ある日の新聞にこんな記事が載っていました。
 
 ―鞭で打たれて初めて
走り出すような馬は駄目なのだそうだ。
 
 優れた馬は人間の持つ鞭の影を
見ただけで進むべき道を
きちんと疾走していくという。
「快馬は鞭影を見るや正路につく。」―
 
 一時期、
KY(空気の読めない人)
という言葉が流行していました。
 
 空気を読むことが
上手な人も苦手な人もいるでしょう。
 
 誰にでも、
得意不得意があるものです。
 
 だからと言って、
それがいいとか
悪いとか一言で片づけて
いいものではないと思います。
 
 でも、
空気を読むことが
たとえ苦手であっても、
私たちは神さまの御心を
察知する鋭敏な心は
持っていなければなりません。
 
 そのためには、
神さまとの交わりを
大切にして聖書に親しみ、
お祈りをすることが大切です。
 
 騎手が神さまであるなら、
みことばである鞭が動く影を見て、
神さまの御心をよく捉えて、
正しい道を進んでいける人になりたいですね。
 
「ぴよ」
 

「自分で輝くのではなく」

 
「正しい者の光は輝き、
悪者のともしびは消える。」
箴言13:9
 クラスで目立ってる
友だちを見ると、
うらやましいけど、
自分はそんな風になれないし。

 自分は何か冴えないなぁ、
と思っている人。

 神様を信じていると、
自分で輝こうと
がんばる必要はありません。

 月が太陽の光で
光っているように、
自分が気づかないところで
神様が自分を
輝かせてくださっています。

 クラスでおとなしくて
目立たない(と自認していた)私は、
卒業間近のある時、
特別に親しくもない
クラスメイトから
「キミの生き方、
何かいいよ。
これからも続けていってね」
みたいなことを
言われたことがありました。

 言ってみれば、
神様が自分の知らない所で
輝かせていてくださったのだと
思います。

(かわこ)
 

「友達」

 
「友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」
箴言17:17
 
 友達の存在って大きい。
 
一緒に笑って、
一緒に馬鹿やって、
一緒に泣いて、
一緒に祈って…「あの時あの友達がいてくれたから…」
「友達のあの言葉のおかげで…」振り返ると、
そう思えることが沢山あった。
 
 「愛」はひとりではなりたたない。
 
神様は愛の輪の中に招いてくださった。
 
そして、
私たち人間同士の愛の輪が広がっていくことも望んでおられる。
 
喜びを共有し、
苦しみを分かち合ってきずなが深まる。
 
私は「友達」は、
本当の愛を知るために、
神様がくださったプレゼントだと思っている。
 
神様ありがとうございます!
 
今日も神様を愛すること、
友達を愛することを教えてください。
 
「おばあちゃん」
 

「御心に沿う歩み」

 
 「王の心は主の手の中にあって、
水の流れのようだ。
  みこころのままに
向きを変えられる。」
 (箴言21:1
 
(抜粋)
 孔子は、意・必・固・我という四つのものを拒絶していた。
 意とは、事前にどうこうしてやろうという意図。
 必とは、必ずこうしたいというこだわり。
 固とは、思い込んでしまったことを変えられない頑固さ。
 我とは、「私が、私が」という自己中心主義。
 
 これらは、
私たちにとっても排除しなければならないものではないでしょうか。
 
 もしこのような性質が私たちの中にあったならば、
神さまの御心に沿うことができませんね。
 
 神さまが望んでおられる者となるためには、
神さまの声を聞く耳と、
聞いたとおりに実行する素直で柔軟な心を持っていなくてはなりません。
 
 神さまの御心に沿っていくことができるよう、
素直で柔軟な心をもって、
神さまの導いておられる方向に逆らうことなく
水の流れのように歩んでいけるといいですね。
 
「ぴよ」
 

「沈黙は金」

 
 「・・・他人の秘密を漏らしてはならない。」 
(箴言25:9
 
 よく「ここだけの話だけど・・・」
と言う人がいますが、
そういう人には要注意!
 
 もうこの時点で秘密をバラしているのです。
 
 こんな話を聞いたことがあります。
 
 近所のおばあさん達が、
大きな声で
「ここだけの話だけどさぁ~・・・」
と話していたそうです。
 
 とても大きな声なので、
秘密だった話が近所の人たちにバレバレだ…という内容でした。
 
 人は、
噂話や秘密の話を聞くことも、
その話を他にバラすことも大好きですよね。
 
 でも、
これは信用に関わることなので、
口は閉じておきましょう。
 
 とくに秘密にしておくべき内容は!!
 
「ぴよ」