「マリヤは言った。
『ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。』」
ルカ1:38
この聖書の中でも有名な場面は、
絵画によく描かれています。
ですから、比較的目にすることも多いマリヤですが、
彼女といえば、清純な若い女性というイメージがあるでしょうか?
しかし、実際のマリヤはこの時10代半ばの少女であったと言われています。
そんな彼女が、突然のみ告げに対して、
このような答えをしているのです。
場合によっては、死刑になる可能性だってあり得るのに、
神様を信じきっていたのです。
果たして、自分が10代の頃は、
こんなにしっかりしていただろうか、
いや、全然そうではありませんでした。
こうしてみると、マリヤは、
凛とした清涼感に満ちた少女だったのではないでしょうか。
神様は、とてもとても大切な計画のために、
少女マリヤを用いられました。
(M.G)
「主によって語られたことは
必ず実現すると信じきった人は、
何と幸いなことでしょう。」
ルカ1:45
ザカリヤは、長年子どもを望んでいましたが、
その願いも叶わず、年を取ってしまいました。
だからでしょうか、突然御使いが現れて、
子どもが与えられると言われたのに、
にわかに信じることが出来ませんでした。
その結果、何ヶ月もの間、
ものが言えなくなってしまいました。
御使いは「私のことばは、その時が来れば実現します。」と言って去って行きました。
そのことがあったからでしょうか、エリサベツはマリヤに、
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、
何と幸いなことでしょう。」と言いました。
自分の思いや何かではなくて、神様を信じきる、
というのがどんなにすばらしい事なのか、
ザカリヤとエリサベツは心底知ることができたのでしょう。
私たちも、このことを心に留めるクリスマスを過ごしましょう。
(M.G)
「『さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』
そして、急いで行って、マリヤとヨセフと、
飼い葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」
ルカ2:15-16
羊飼いたちは、野宿で夜番をしていました。
照明器具もない当時、辺りは真っ暗だったはずです。
そこへ突然天使が現れ、回りを照らしたのですから、
彼らはものすごく怖がったに違いありません。
けれども、彼らは急いで告げられた出来事を見に行ったのです。
考えてれば、
救い主のしるしが
「布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりご」というのは、
そんなことありえるの?というようなことです。
でも、それだからこそ、
羊飼いたちは救い主を捜し当てることができました。
羊飼いは、当時の社会の中で、とても低く見下げられていました。
けれども、御使いたちが言ったように、
彼らは御心にかなう人に与えられる平和を頂くことができたのです。
神様は、羊飼いたちを恵みの使者にしてくださいました。
彼らの心を温かく照らしながら。
(M.G)
「アブラハムにイサクが生まれ・・・キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
《マタイ1:2-16》
カタカナばかりの名前の羅列。
私にとって、聖書を読もうとの決意も一瞬にして眠気に変わってしまう難所でした。
でも、聖書を学び、その背景を知ると、
この無味乾燥な系図が、
神様の恵みの大きな流れなのだと気付かされました。
ここに書かれている一人ひとりにも、
その人生があったこと。
そしてその生涯の中で、神様とともに歩む時間を持ったこと。
多くの失敗もしたし、たくさんの罪も犯したかもしれない。
しかし神様は、一人ひとりの小さな信仰を拾い上げて、
信仰の糸として、一本の恵みの流れを紡ぎだしてくださった。
一人ひとりのその小さな歩みが、
キリストの誕生につながるなんて、誰が思ったことだろう。
私たちのこの日々の歩みも、
神様は恵みの流れに織り込んでくださる。
これってとても素晴らしいこと。
神様の計画は、壮大で、綿密で、こんな私にも及ぶ。
バトンをしっかり受け継ぎ、次にしっかり繋げたい。
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。
その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、
ふたりがまだいっしょにならないうちに、
聖霊によって身重になったことがわかった。」
≪マタイ1:18≫
思っても見なかったことが起こったとき、
聖書の登場人物はそれをどの様に受け入れたのだろう。
イエス様の誕生は、まさにそう。
とてもとても考えられないこと、
受け入れられないことが起こった。
マリヤは自分の身に起こったことに驚き惑ったことだろう。
ヨセフは憤りと、不信と、困惑の中で悩み苦しんだかもしれない。
しかし、ヨセフは主の語りかけに静かに従い、
マリヤはすべてのことを心に納めた。
私たちの生涯にも、受け入れられないことが、たくさん起こる。
その中で、戸惑い、心を乱し、涙する。
しかし、主はその涙を知っておられる。
そしてそこを通る者だけに、特別な恵みと語りかけを与えられる。
聖書の神様は、喜びの中だけでなく、
涙の中にも共にいてくださる神様なのだ。
「ヨセフは眠りからさめ、
主の使いに命じられたとおりにして、
その妻を迎え入れ・・・。」
《マタイ1:24》
神学生のとき、
CSのお手伝いでヨセフの役をしたことがあります。
そこで驚いたことは、
セリフが一つもなかったことです。
マリヤと一緒にあちらこちらと舞台を動き回りますが、
言葉はひとつもありませんでした。
そう、聖書でもヨセフは一言も発していません。
しかし、このヨセフの沈黙の中に、
彼の信仰の姿がよ~く現れているのではないでしょうか。
彼は眠りから覚めると、すべてを受けとめ、
命じられたとおりに、一つひとつのことを実行に移す。
簡単なことではありません。
不平不満や、主張、
言い訳ばかりが口をついて出て来る私たちですが、
『黙して従う』。
そんな一日を送ってみてもいいかも知れません。
「マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
《マタイ1:21》
“ビューティフル・ネーム”
―私たちには一人ひとりに名前がつけられています。
お父さん、お母さんがつけてくれた人。
あるいは、お世話になった方によって付けられた名前もあるでしょう。
マリヤさんの赤ちゃんには、『イエス』という名前がつけられました。
ヘブル語で「神は救い」という意味です。
そしてそこには、
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救う」
という大切な使命が与えられていました。
“重たい!”“重すぎ!”という声が聞こえてきそうですが、
しかし、イエス様はこの重たい重たい使命を一身に背負って、
その生涯を走り抜いてくださいました。
そこに救いの道が開かれたのです。
“イエス様ありがとう!”
心からそう言うことができたら、
それが一番素晴らしいクリスマスです。
「その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
《マタイ1:23》
“クリスマスは、嫌いだ!”
ある人が書いていました。
みんなが楽しそうにしていて、
一人ぼっちの寂しさが身に染みるから、
それが理由であったようです。
クリスマスは楽しい時ですか?
それとも寂しい時ですか?
みんなと一緒にいても孤独を感じることがあり、
一人ぼっちでもみんなの思いが届いて温かい気持ちになることがあります。
今でこそ、
大々的なパーティーをイメージするクリスマスですが、
最初のクリスマスは、
ごく限られた人たちだけで、
ひっそりと一人の赤ちゃんの誕生を喜ぶ、
そんな小さなクリスマスでした。
でも、そこでヨセフは、マリヤは、誰よりも
「共にいてくださる神様」を感じることができたのではないでしょうか。
私たちは一人ではありません。
神様はいつもあなたと共にいてくださるのです。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、
ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、
見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」
《マタイ2:1》
聖書は、事実だけを書き記し、
時として、“淡々と”という感じがします。
ここで、
「見よ。東方の博士たちがエルサレムにやって来て」
と記されていることの中には、
どんなに大きな困難があったことでしょう。
車も、電車もなかった時代に、
何千㎞もの距離を旅することは並大抵ではありません。
根拠は、不思議に明るく輝く星。
ユダヤに知人がいる訳でもない。
しかし、彼らはいかなる困難もいとわず、
この星が指し示す一人のお方を目指して旅立ちました。
文字通りすべてを懸けて。
それ程までに、
すべてを懸ける価値のあるものが与えられることは素晴らしいと思います。
そして、
主イエス様はまさにそのようなお方です。
「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。
エルサレム中の人も同様であった。」
≪マタイ2:3≫
ある一つのことに対して、
人が示す反応というのはまちまちです。
メシヤの誕生という喜びの知らせに、
ヘロデ王は恐れ惑い、
エルサレム中の人も戸惑いました。
多くの困難を乗り越えて、
遥々エルサレムまでやってきた博士たちには、
意外だったのではないでしょうか。
喜びの知らせであったはずなのに、
人々の反応がそうではない。
クリスマスの出来事は、
人の心をよく映し出しています。
熱い、燃えるような心。
不安に包まれながらも、
ただ主のなさることを受けとめる静かな心。
自分のことだけに忙しい心。冷たい心。
無関心の心。
私たちはクリスマスを、
どの様な心で迎えるのでしょうか。
主イエス様は、私たちの心を、
温めるために、来てくださいました。
ほっこりと。
ほんわりと。
「ユダの地、ベツレヘム。
あなたはユダを治める者たちの中で、
決して一番小さくはない。
わたしの民イスラエルを治める支配者があなたから出るのだから。」
≪マタイ2:6≫
ベツレヘムの町は、
これといって特別なことのない田舎町の一つ。
誰も目を留めないような、小さな町でした。
でも、神様はこの小さな町、
ベツレヘムに心を留め、
そこを救い主の産まれる場所としてくださったのです。
私たちは、小さい者を、
小さいからと見下したり、役に立たないもの、
どうしようもないものとして排除したりするかもしれません。
しかし、神様は、かえって、
小さいことに目を留めて、選び、ご自分のものとし、
その御手で優しく包み込むようにして、
恵みの中に置いてくださるお方なのです。
私たちは、小さな小さな存在かも知れません。
でも、神様が目を留めてくださる大切な一人なのです。
「彼らは王に言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。』」≪マタイ2:5≫
ヘロデ王が「救い主はどこで生まれるのか?」
と問いただした時、
学者たちは即座にそれに答えることができました。
旧約聖書に精通していたからです。
でも、彼らは動きませんでした。
ヘロデ王も、祭司長や律法学者、
そしてエルサレム中の人々も。
エルサレムとベツレヘムとは目と鼻の先、
ほんの10㎞キロ程しか離れていません。
にもかかわらず、誰も、
ベツレヘムに行こうと立ち上がることをしませんでした。
遠く遠くの博士たちが一生懸命になって、
ごく近くにいる者たちが全く無関心とは、
一体どうしたことでしょう?
近くにいると見えないことがあるのです。
近すぎて恵みを恵みと感じられないことがあるのです。
小さな頃から教えられていることが、
私たちの信仰のアクションへとつながっていったなら、
どんなに素晴らしいことでしょう。
「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。
すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、
ついに幼子のおられる所まで進んで行き、
その上にとどまった。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
《マタイ2:9-10》
ここは原語では、
「大きな喜びをひどく喜んだ」となっていて、
“そのようないささか不器用に言葉を重ねても
なお十分に言い表すことができないほどの
喜びがここに刻み込まれているのです。”
そんな風にこの箇所を紹介している人がいました。
長い長い旅の末に、
救い主イエス様にお会いすることのできた博士たちの喜びは、
どんなに大きなものだったでしょう。
それは、多くの困難を乗り越えて、
それを求め続けた者だけが味わい知ることのできる『大きな喜び』でした。
イエス様は、私たちの心に「喜び」を与えるために来てくださいました。
神様だけが私たちの心に与えてくださる喜び。
それをもう味わったでしょうか?
クリスマスは喜びの時です。
あなたの心にも『大きな喜び』が与えられますように!
「そしてその家に入って、
母マリヤとともにおられる幼子を見、
ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
《マタイ2:11》
博士たちは、宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬をささげました。
“それは現代の価格にしていくら位だったのか?”
いろんな人が計算をしています。
黄金は王の象徴、乳香は祈りの象徴、
没薬は死の象徴である、と解説がなされます。
しかし、いずれにせよ、それらが意味しているのは、
それは博士たちの心を表すもの。
心のこもった、最高の贈り物であった、
ということではないでしょうか。
クリスマスには、プレゼントが贈られます。
それは、神様が私たちに最高のプレゼントをくださったからです。
いつも『受ける』ばかりの私たちですが、
『与えること』をしてみてはいかがでしょう?
私たちはクリスマスにどんなプレゼントをするでしょうか?
そこに心は込められているでしょうか?
「光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。」
《ヨハネ1:5》
先日、ロウソク作りをしました。
大きなロウの塊を削り、湯煎にかけて溶かし、
好きな色をつけて、竹の筒に流し込み、
固まるまで待って、竹を割ると、
世界で一つだけの素敵なロウソクの出来上がり!
“あなたがたは、ロウソクみたいなもの”
そう語られたことがあります。
普段は大きく背が高いのがオトナ。
子どもは小さな弱い存在。
でもそこで語られたのは全く逆でした。
“先生は、この小さなロウソク。
みなさんは、一番長いロウソクです。
これからまだまだ長い間、光を放って、
輝き続けることができるのです。”
電気の光が満ち溢れている現代にあって、
ロウソクの光は何とも弱く、
小さな光かも知れません。
しかし、ロウソクの光が真っ暗な部屋を照らす時、
そこはもはや闇ではなくなるのです。
しかもそれは、
何とも言えない温かい光です。
闇を打ち破る光。
どんな光を輝かせるのでしょう?
私たちにはそんな大切な役割が与えられているのです。
「キリストは神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。」
《ピリピ2:6-7》
14回。
これは、私がこれまでに引越した回数です。
その度ごとに、涙を呑んで、たくさんの物を処分して、
身軽になったはずなのに、今も多くの荷物に囲まれて生活している私。
私たちも、これまでの人生の歩みの中で、
そんなたくさんの荷物でふくれあがっているのではないでしょうか?
その中には、大切な大切な、宝物もあることでしょう。
“これだけは捨てられない!”
“これは絶対に手放せない!”
でも、神様は、すべてを捨てられました。
それは、それらすべてを捨ててまでも、
どうしても手に入れたいものがあったから。
それは私たち一人ひとりです。
「あなたを取り戻すためなら、すべてのものは惜しくない!」
神様はそう考えて、神のあり方さえ捨てて、
ご自分を無にされました。
私たちはこの神様の愛に何をもって応えることができるでしょう?
何をお返しすることができるでしょう?
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。
それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
《Ⅱコリント8:9》
♪~主は豊かであったのに貧しくなられた
私たちが主によって豊かになるために~♪
(教会福音讃美歌102番)
この年、新しい讃美歌ができました。
その中で、今年のアドベントに、
ずうっと心に通っているのは、この讃美歌です。
「主は貧しくなられた」。
それは、低く低くへりくだられたこと。
“下へ!”“もっと下へ!”と向かわれたことを意味しています。
現代は競争社会です。『上へ!』との号令のもとに、
“もっと上へ!”“なんとか上へ!”と人の足を引っ張ってでも、
上を目指します。
しかしますます貧しくなる心…。
イエス様は貧しくなられました。
私たちを富ませるために。
イエス様はすべてを与えられました。
惜しみなく。
しかし、誰よりも豊かな心を持ち続けておられました。
イエス様の恵みを知る時、私たちも本当の意味で豊かな者になるのです。
「私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」
≪Ⅰヨハネ4:10≫
昨日、雪が降りました。
積もるほどは降らなかったけど、
大粒の雪が、ヒラヒラと空を舞い、
一瞬で辺りを真っ白に変えてしまいました。
冬の朝。
街中が真っ白になっている光景が、
とても好きでした。
降り続ける雪を見ながら、
ふと何年か前にみんなで歌った讃美歌を思い出しました。
♪~雪よりもすると言われたお方が生まれた日に
天使たちと高らかに歌おう天国のベルを鳴らし
メリークリスマス!メリークリスマス!救い主の誕生♪~
そう。クリスマスは、
雪よりも白くすると言われたお方が、
お生まれになった日。
雪を見る時、一言、祈りましょう。
“神様。私の心を雪よりも白くしてください!”
「しかし定めの時が来たので、
神はご自身の御子を遣わし…
これは律法の下にある者を贖い出すためで、
その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」
≪ガラテヤ4:4-5≫
『時』ってとても不思議。
3時になるのが待ち切れなくて、
時計とニラメッコした小さかった頃。
“時よ。止まれ!”と心から願った、受験生の時。
大人にも、子どもにも、
富む者にも、貧しい者にも、
等しく与えられている24枚のコイン。
長い長い、時の流れの中で、
神様は『その時』を待っておられた。
ついに時が満ちた時、“待ってました!”
とばかりに神様は御手を伸ばし、
御子を世に送られた。
それは、罪の虜となっている私たちを、
解き放つため。
そこに神様の熱い思いを感じる。
ちょうど良い時に、神様は、
恵みを私たちに与えてくださる。
早過ぎることも、
遅れることもなく、
ちょうど良い時に。
「神様の時」を、一歩一歩、
歩んで行きましょう。
急ぎ過ぎないで。
遅れないで。
しっかりと神様と歩調を合わせて。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
(マタイ3:2)
「洗礼や悔い改めは、
外国人がユダヤ教に入信する時にするもの。
アブラハムの子孫の私達には関係ない」
…これが、ユダヤの人々の当時の考え方。
でもバプテスマのヨハネが聖霊によって語るのを聞き、
自分たちも悔い改めなければいけないと気づかされました。
悔い改めは最近教会に来た人がするもの、
心にチクッと感じる事があっても、
そのうちね…と思っていませんか?
私達は自分が考える以上に固い心を持っているので、
何段階にも分けて耕して柔らかくしなければ、
イエス様に応じる事ができません。
悔い改めを勝手に卒業しない人になりましょう。
(ゆらまり)
「『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は
どこにおいでになりますか。…』
…それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。」
(マタイ2:2,3)
クリスチャン医師・柏木哲夫先生が、
こんな証しをしておられました。
自分は細かい研究データから
導き出された結論を受け入れる生活をしていて、
説明のつかない聖書の奇蹟がなかなか信じられなかったが、
ある時特別集会の講師が、
「罪は英語でSINと書き、
Iが真ん中にあります。
I、つまり私が真ん中に居座って、
私、私とのさばるのが罪なのです」
と教えて下さったので、
そこに自分の姿を見出し、
イエス様の救いにおすがりしたとの事。
ヘロデ王は、
新しい王様の誕生で立場が危うくなるのを恐れ、
自分が真ん中に居続けられるように、
イエス様を殺そうとしました。
私、私とのさばるヘロデ王、
あなたの心にもいませんか?
ゆらまり
「私たちは、
東のほうでその方の星を見たので、
拝みに参りました。」(マタイ3:2)
神様を知らない方々のお葬式で、
よくこんな言葉を耳にします。
「天国で、心おきなく好きな音楽を続けて下さい」
「先に行った人達と、ゆっくりお酒を飲んで下さい」…。
本当の天国で続けられるのは、
神様への礼拝、しかも、○○して下さい、
というお願いの混じらない、
神様を崇め賛美する事に集中した礼拝です。
最初のクリスマスにイエス様にお会いした博士達も、
この礼拝へと導かれました。
私達の礼拝は、開始時間前後に駆けつけて、
まるでイエス様が白い服のサンタクロースかのように、
こんなに頑張っているので代わりに
○○して下さいとお願いを盛り込むものになりがちです。
自分の希望を横に置いて、
ただイエス様を礼拝するという事が、
少しずつわかってきました、
と言える人にして頂きたいですね。
ゆらまり
「さて、この土地に、
羊飼いたちが、
野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」
(ルカ2:8)
羊は弱いくせに頑固な動物です。
敵と戦う鋭い歯もなく逃げる為の速い足もありません。
自分ではエサ場も見つけられず、
一度気に入った草地があるとそこにこだわり、
丸坊主になるまで食べ尽くします。
方向感覚もなく、
迷ったら帰る事ができません。
犬や猫なら「のら」になっても何とかなりますが、
「のら羊」はいない…生きられないのです。
羊が存在できるのは、
羊飼いのそばにいる時だけ。
おいしいご飯を食べ、
きれいな水を飲み、
暗くなったら暖かくしてもらって眠る…
私達も羊飼いイエス様の見守りがあって初めて、
本当の意味で生きられるのです。
ゆらまり
「…女預言者のアンナという人がいた。
この人は非常に年をとっていた。
…そして宮を離れず、…神に仕えていた。」
(ルカ2:37)
年をとると、小さい字が見えず、
少しでも食べ過ぎると胃がもたれ、
新しい事を覚えて
身につけるのが難しくなります。
でもアンナは、
それを悲観してうずくまらず、
ゆっくり時間をかけて祈り深く生活し、
幼いイエス様と対面する恵みを頂きました。
できる事とできない事は人によって違い、
また変わっていきます。
中高生はまだ、
長い時間をかけて
導いて下さった神様について、
言葉を選んで
語ったりはできないけれど、
よく見える目、
一晩寝れば疲れの取れる体、
何でも吸収できる
フレッシュな脳があります。
できない事を数えるより、
今できる事に、
感謝して全力で取り組んで下さい。
ゆらまり
「あなたがたは、
布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。」
(ルカ2:12)
高齢になられてから信仰を持たれたSさんは、
聖書を細かく学んで理解する事はできませんでした。
ただ単純に天の神様に祈り、
「いつくしみ深き」と「きよしこの夜」だけは
何も見ずに自信を持って歌えたので、
桜が咲いてもセミが鳴いても、
訪問した時は「きよしこの夜」を
一緒に口ずさみました。
周りの人は奇妙に思ったでしょうね。
マルチン・ルターは、
「聖書は、キリストが横たわる飼い葉おけである」
という言葉を遺しています。
今年のクリスマスは終わりますが、
この先開く聖書のどこにでも、
私達を愛し、
喜んで飼葉おけに横たわって下さった
イエス様を見つけながら歩みましょう。
ゆらまり