きょうダビデの町で、
あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。
ルカ2:11
クリスマスは何の日でしょう。
イエス・キリストの誕生日でしょうか?
そうかもしれません。
365分の1の確率でそうです。
実はイエス・キリストがお生まれになった日は分かりません。
聖書の記述から特定するのは不可能です。
そうした中で、
12月25日からの12日間、
キリストがお生まれになったことを
祝うことが教会で定着していきました。
いつお生まれになったか人には特定できないというのは、
実は神さまの知恵かもしれません。
「きょう」というのがいつか分からないというのは、
別の見方をすると、いつか分からない、
今日だったかもしれない、
というように思えるからです。
ここしばらく心の中がモヤモヤとして、
そういえばスカッとした思いを
持ったのはいつだっただろうと感じたりするとき、
不意に主イエスのひかりが心の中にさしこんできて、
神の愛がリアルに感じられることがよくあります。
クリスチャンって、
クリスマス的に歩んでいるんでしょう。
「なた」
地の上に、平和が、
御心にかなう人々にあるように。
ルカ2:14
地の上に平和がと天使は賛美しましたが、
「御心にかなう人々に」と天使らはつけくわえました。
御心にかなう人々に。
自分は御心にかなっているんだよなって思えます?
この1年、御心にかなう1年間だったなって思えます?
「御心にかなう(ユードキア)」
という言葉が新約聖書中、
もう1回出てきます。
マタイ11:26です。
賢い者や知恵ある者ではなく、
おさなご
(当時の意味からすれば現代の中高生もこれにあてはまります)
たちが御心にかなっているとです。
つまり、これを書いている牧師や神学者にではなく、
これを読んでいる中高生の人たちが。
うまくいったこと、
うまくいかなかったこと、いろいろです。
良かったこと、悪かったこと、
いろいろです。
でも、神さまはとにもかくにも自分を愛していてくれて、
好きでいてくれる
(ユードキアの基本的な意味)んだなって、
天使の賛美を思い起こすたびに、
自分を好きでいてくれる神さまを思いましょう。
なた
ひとりのみどりごが、
私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、
私たちに与えられる。
イザヤ9:6
御子イエスが生まれるという
一つのできごとを2通りに描いています。
生まれる、という私たちに見えること。
そして、神から与えられる、
という私たちの目に見えないこと。
さすがイザヤ。
パウロはさらに一歩踏み込み、
「見えないものにこそ目を留めます」
(Ⅱコリント4:18)と語りました。
キリストが生まれたことは、
学校の授業でも触れられたりします。
けれどもクリスチャンでない人たちさえも
事実だと認めることの奥に、
目に見えない何かを感じ取っているって、
大切です。
なた
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ1:5
霧の濃い夜の山道を
バイクで一人走ったことがあります。
ヘッドライトに照らされる部分以外は真っ暗なんです。
心細かったです、あの時は。
そしてヘッドライトの灯りが本当に頼もしかったです。
濃霧の夜の山道は、
周りが本当に何も見えないんです。
これは人を不安にさせます。
まわりの人が自分について
陰で何を言っているのか考え出すと、
不安になったりします。
ひとの心は見えませんから、
考え出すと訳が分からなくなります。
でも、こうやって歩んでいけば
良いっていう感じで光りに照らされていると
少し安心できます。
全てをご存知の方がその光を
出してくれているなら、
なおさらです。
なた
すべての人を照らすそのまことの光が
世に来ようとしていた。
ヨハネ1:9
クリスマスでは、
多くの教会でキャンドルサービスが行われます。
4世紀にキャンドルミサが行われ始めたようですが、
現代のようなキャンドルサービスは、
18世紀にモラヴィア教会で子どもたちによって
行われたものに始まるようです。
ひとりの救い主のひかりがみんなに届き、
神さまのひかりが自分のひかりになって
輝くという真理がとてもわかりやすく伝わってきます。
暖かく照らし出すキャンドルの灯のように、
救い主イエスのひかりによって心をあたためてもらったり、
また歩んでいくべき道を照らしてくれるように祈りましょう。
なた
マリヤは男の子を産みます。
その名をイエスとつけなさい。
この方こそ、
ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
マタイ1:21
救い主イエスは、
罪の問題の解決のために生まれられた、
とこれを読んでいるみなさんは何度も聞かされてきたと思います。
その通りなんですが、
「ご自分の民を」というところにも目をとめてみましょう。
罪を犯してきた民を救うために
御子イエスがこの世界に送られてきましたが、
罪を犯していても、
その人たちはやっぱり「ご自分の民」です。
この一年間、何回、
罪を犯してしまいましたか?
ウソを一度もつかないでこれました?
口ゲンカを一度もしないでこれました?
そんなことを考えると、
自分とキリスト教ってあってないなと思えたりもします。
それでも、です。
自分は神さまから好かれていて、
神さまの民なんです。
それでも、なんです。
これでも、なんです。
来年も、ですよ。
ちなみに。
なた
「その名はインマヌエルと呼ばれる。」
マタイ1:23
ご存知、
うちの教団の名前でもあります。
ヘブル語で、
「神は私たちとともにおられる」という意味です。
携帯電話が欲しい、
と中高生からよく聞かされます。
どうして?と聞くと、
いつでも友だちとつながっていたいから、
とよく聞かされます。
神さまも、みんなとつながっていたいと思っておられます。
で、携帯電話のかわりに、
御子イエスをこの世界に送られました。
御子である救い主イエスを
信じることで私たちは神さまとつながり、
またイエスの名によって祈ることで、
メールが相手に届くように、
私たちの思いも確実に神さまのところに届きます。
今年もイエスさまが欲しい、
だっていつでも神さまとつながっていたいから。
そんな風に思ってみるのもどうでしょう。
なた
八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、
幼子はイエスという名で呼ばれることになった。
胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
ルカ2:21
クリスマスが始まって8日たちました。
新年の2日目で、
クリスマスプレゼントよりも
お年玉をどう使うかが気になるぐらい、
もうクリスマスってどうでも良い感じかもしれません。
でも教会のこよみでは、
クリスマスってもう少し続くのです。
赤ちゃんが生まれたら、
もう大騒ぎです。
中高生のみなさんには
ピンとこないかと思いますけど、
初めての赤ちゃんとなれば、
親は特に大騒ぎするんです。
10ヶ月前のことなんて、
忘れてしまうほどに。
ヨセフとマリヤは10ヶ月前の
神さまからのお約束を覚えていました。
去年の2月、
どのような語りかけを神さまから頂いたか覚えています?
ヨセフとマリヤは神さまからの語りかけを
よく覚えている人だったんだなと思います。
10ヶ月前が無理なら、
とりあえず、
クリスマス礼拝でのメッセージを、
ちょっと思い出してみませんか?
なた
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄です。
ルカ2:32
イスラエルの慰められることを望んでいたシメオンは、
イエスと出会ったとき、
異邦人に幸いが届けられることが
御民イスラエルの光栄だと語りました。
イスラエルの人たちに幸いが届けられるから、
ではなく。
この1年、
幸せになりたいです。
幸せだなって思うことたくさん経験したいです。
ふしぎなことに、イエスと出会うと、
まわりの人が幸せになるのを見て、
良かったぁと幸せを感じる人になるみたいです。
そんな風な幸せを感じて
生きていく一年って良いな、と。
なた
……エルサレムの贖いを
待ち望んでいるすべての人々に、
この幼子のことを語った。
ルカ2:38
エルサレムは、
エル・サレム、
つまり神の平和という意味がこめられています。
神殿があって礼拝も
ちゃんとささげられてはいるけれど、
エルサレムは異国に支配され、
また物騒なことも起きたりと、
ここのどこが神の平和?という感じでした。
教会に行って、
礼拝に参加し、
それなりに祈ってもいるんだけど、
実際の生活はちょっとねぇ、
とまるで自分のコトみたいだったり。
それでも、
このエルサレムが何とかなればなぁと思う人たち全てに、
救い主イエスのことがハンナによって語られました。
何があっても、
自分がどんな感じでも、
こういう自分が何とかなったらなぁと思う人に、
救い主イエスについて深い語りかけが与えられます。
だから何はともあれ、
こういう自分でも何とかなったらなぁ、
というあたりから始めましょう。
なた
羊飼いたちは、
……神をあがめ、
賛美しながら帰って行った。
ルカ2:20
いよいよ、
クリスマスの12日間が終わります。
それで、
何をしながらクリスマスをしめくくりましょうか。
話は変わりますが、
高校時代、
ラグビー部の県大会決勝で大番狂わせで
強豪校に勝ち優勝した我が校の
ラグビー部は校歌を歌いながら
競技場を後にしていました。
人前で歌うタイプの人たちではなかったのですが、
よっぽど感動したのでしょう。
羊飼いたちはこの世に来られたイエスを見て、
賛美しながら帰って行きました。
クリスマスの12日間を終えるこの夜、
小声でも良いですから、
お気に入りのキャロルを歌いながら
眠りについてみませんか?
なた
そしてその家に入って、
母マリヤとともにおられる幼子を見、
ひれ伏して拝んだ。
マタイ2:11
今日は公現日です。
クリスマスの12日間も終わりです。
伝統的に、
西方の教会(カトリックとプロテスタント)は、
この日と東方の博士の礼拝とを結びつけます。
なぜかというと、
救い主イエスが礼拝を受けたことを記録する聖書中最初の記事が、
この東方の博士らの訪問だからです。
この記事にあるように、
イエスが神としての礼拝を受けたことから、
クリスマスでは永遠の御子が肉体をとられたことを思い起こし、
公現日(エピファニー)で肉体をとられた救い主は
神の御子であることを思い起こす日とされています。
そんな細かいこと、
よく気にするものだと思われるかもしれませんが、
アメリカの某デパートがクリスマス商戦を仕掛ける前は、
この公現日はクリスマスと同じくらい大切にされていたのです。
どうして大切なのでしょう。
救い主イエスは神なる方です。
ざっくばらんに言いますと、
神さまなんですから、
主イエスに頼る人を神さまの世界
(天国)に連れて行ける方です。
「あの家に遊びに行ってみようか、
誰の家だかよく分かんないけど」
と見ず知らずの人の家を指さされても、
大丈夫かよと思うでしょう。
けれども、
「うちに遊びに来いよ」と言われたら、
安心してついて行けます。
公現日とは、
この救い主イエスは
神さまなんだから安心できるんだよな、
感謝だなって祈る日です。
感謝です、ほんとうに。
なた