「見よ。
あなたの王があなたのところに来られる。
柔和で、
ろばの背に乗って。
それも、
荷物を運ぶろばの子に乗って。」
 (マタイ21:5)
 
 イエスさまは私たちの王さま。
 
 でも、
権力や暴力で押さえつけて
従わせる王さまじゃない。
 
 イエスさまは柔和で謙遜な平和の王さま。
 
 だから、
イエスさまが支配されるところには、
平和が生まれる。
 
 権力や暴力は、
人を自分の言いなりにさせることができるけど、
人の心を遠ざける。
 
 でも、
ほんとうの柔和と謙遜は、
人の心を引きつける。
 
 本当に強いのはどっちだろう?
 
 イエスさまは、
私たちに本当の強さを
与えてくれる平和の王さま。
 

「イエスは宮に入って、
宮の中で売り買いする者たちを
みな追い出し…。」
(マタイ21:12)
 
 イエスさまも怒ることがあったんだ。
 
 ・・だから、
私たちも怒ってもいい?
 
「人は自分が大切にしているものが
傷つけられると怒る、
つまり、
何に怒るかで、
その人が何を
一番大切にしているかがわかる」と、
ある読み物に書いてあった。
 
 自分は、
どんなことがあったら怒るだろう?
 
 自分が傷ついた、
自分が気に入らなかった、
自分がひどい扱いを受けた
・・・自分のことばっかりに
なってないだろうか。
 
 怒って当然?
 
 ほんとにそうなのか。
 
 イエスさまは何を怒ったんだろう?
 
 自分が怒りを感じるとき、
ちょっと立ち止まって考えてみよう。
 

「だから、
あなたがたも用心していなさい。
なぜなら、
人の子は、
思いがけない時に来るのですから。」
(マタイ24:44)
 
 思いがけない時に来る
…そのことを、
私たちは東日本大震災で実体験した。
 
 「そんなことないだろう」
「まあ、今日はだいじょうぶだろう」
って思いたいけど、
そうじゃないんだね。
 
 イエスさまは、
用心していなさいと言われたけど、
用心するって、
どういうこと?
 
 「わたしは、
あなたがたに前もって話しました」
私たちにはみことばが与えられている。
 
 みことばに書かれている
ことから目をそむけず、
わかろうとしよう。
 
 いいとこ取りじゃなくて、
そのまま受け取ろう。
 
 受け取った通りに生きよう。
 
 それが、
一番の用心。
 

「何のために、
こんなむだなことをするのか。」
(マタイ26:8)
 
 イエスさまのことだけを思って、
高価な香油を注いだ女の行為を、
弟子たちは「こんなむだ」と言った。
 
 よく考えると、
弟子なのに、
イエスさまにすごく
失礼なことを言っている。
 
 でも、
私たちの心の中にも、
イエスさまにささげる時間や
お金や労力
(祈ったり聖書を読んだりする時間、
献金、奉仕など)
「むだ」と思う気持ちが
ひそんでないだろうか。
 
 それは、
私たちの心がこの世の価値感に
つかまえられている証拠。
 
 イエスさまは女のしたことを
「りっぱなこと」と言ってくださった。
 
 イエスさまのためにすることは、
むだなことなんかじゃない。
 
 絶対きず物になったり、
盗まれたりしない
「天にたくわえる宝」なのだ。
 

「どう考えますか。」
(マタイ26:66)
 
 イエスさまを捕まえた人々は、
イエスさまを裁判にかけた。
 
「どう考えますか」…そして、
みんなで寄ってたかって
「死刑」と決めた。
 
 私たち人間は、
ちょくちょく神さまのことを
「どう考えますか」と言い合い、
「そこはいいね」
「それはどうなんだろう」
と自分たちの考えで判断する。
 
 そして、
自分の理解に合わないと
「神さまはおかしい」
と言ってしまう。
 
 いつの間にか自分を
神さまより上に置いている。
 
 ところで私の理解力って、
神さまを審査できるほどだっただろうか?
 
 こんなに狭い私の理解の中に
収まってしまうような神さまだったら、
あまりにちっぽけで、
信じがいも頼りがいも
ないんじゃないだろうか。
 
 私たちの神さまは、
私たちの理解よりも
ずっとずっと大きいお方。
 
 だからこそ、
信じるのだ。
 

「今、
十字架から降りてもらおうか。
われわれは、
それを見たら信じるから。」
(マルコ15:32)
 
 十字架から降りる
…イエスさまは、
本当にそうしようと思えば、
する力があった。
 
 しかも、
人々はそれを見たら
信じるって言っている。
 
 そんな中、
一言も発することなくイエスさまは
十字架にとどまり続けて下さった。
 
 馬鹿にされ、
ののしられながら、
できるけど、
しない。
 
 それは、
どれだけの忍耐だっただろう。
 
 それは全部、
私たちの罪の罰を代わりに
受けてくださるため。
 
 私たちが滅びから救われるため。
 
 私たちを愛して下さる愛の力が、
そんなすごい忍耐を生んだんだ。
 
 私たちが天国に行けるのは、
実はその忍耐があったからこそ。
 
 イエスさまは、
私たちが今
「こんなの無理!」
と思っているどんなガマンよりも
すごい我慢をして下さったお方なのだ。
 
 私たちのために。
 

「百人隊長からそうと確かめてから、
イエスのからだをヨセフに与えた。」
(マルコ15:45)
 
 イエスさまは確かに死なれた。
 
 それは、
ローマの兵隊たちが、
はっきり確かめた事実。
 
 …それはつまり、
「罪の支払う報酬は死」
っていう決まりが、
完璧にクリアされたっていうことなのだ。
 
 イエスさまは、
私たちの罪を全部負って、
私たちの身代わりに、
きっちり死んでくださった。
 
 だから、
十字架を信じる人は、
自分の罪の罰を免除される。
 
 罰はなくなったんじゃない。
 
 今でもちゃんとあるけど、
神さまは、
免除制度をもうけてくださった。
 
 希望すればだれでも受けられる免除制度。
 
 条件はただ一つ、
その気になればだれでもできる、
「信じる」こと。
 
 信じる人限定…
ここのところとっても大事だけど、
忘れがちだから、
気をつけよう。
 

 「あれほど大きな石だったのに、
その石がすでにころがしてあった。」
(マルコ16:4)
 
 これがあったら、
イエスさまの力も発揮されない、
と思える「石」がなにかあるだろうか。
 
 自分がどうがんばったって、
絶対に動かせそうもない悩みや問題。
 
 イエスさまのよみがえりの力は、
それを動かすことができる。
 
 何といっても、
どんな人間もそれこそ
「絶対に」勝てない死に
打ち勝ったパワーなのだ。
 
 女たちは、
「無理ねぇ」と言って、
あきらめて座り込んでいなかった。
 
 とにかく準備して出かけて行った。
 
 そして、
石が転がしてあるのを見た。
 
 行ったからこそ目撃できたイエスさまの力。
 
 そこで待っている驚きと感動を、
みんなで味わいたいね。