人間の元の姿
 
 
 
 「この方こそ、
ご自分の民をその罪から
救ってくださる方です。」
 
《マタイ1:21》
 
 
 
 「救い」という言葉は
新約聖書が書かれた
ギリシャ語では「ソーテーリア」と言います。

 その意味は治癒、
 
回復、贖いなどです。

 言い換えると救いというのは
元の姿に戻ることなのです。

 私たちが教会で「救われる」と
聞くと何か特別なことのように
思うかもしれませんがそれは
特別なことではなくて人間が
あるべき元の姿に戻ることなのです。 


 
 日本の人口の1パーセントが
クリスチャンであるなら
99パーセントの人は人間の
元の姿でないということなのです。

 そんな風に考えると
私たちは早く皆が元の姿に
成って欲しいと思わないでしょうか。

 そのために祈りましょう。

 家族でしょうか。

 友達でしょうか。

 その人が元の姿に
なるように祈りましょう。


 
 (だいずパパ)
 
 
 

神が共におられる
 
 「見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(
訳すと、神は私たちとともにおられる、
という意味である。)  
マタイ1:22
 
 イギリスで18世紀に
リバイバルのために用いられた
ジョン・ウェスレーという牧師がいました。

 彼は死の間際に
「最善のことは神が私たちと
共にいて下さることである。」
と言いました。

 私たちはイエス様の十字架は
私達の罪を赦して天国に入れるもの
だと考えていないでしようか。

 そうではありません。

 イエス様の十字架は
私たちが常に神と共にいる者に
するのが目的なのです。

 冨を持った人よりも、
有名になることよりも人にとって
最高の幸せは神が共にいて下さることなのです。

 あなたはそんな体験をしていますか?

 そのためには私たちは
どうしてもイエス様を信じて罪を赦して頂き、
心をきよめて頂く必要があるのです。


 (だいずパパ)
 

「インマヌエル」
 
「見よ、処女がみごもっている。
そして、男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。
(訳すと、
神は私たちとともにおられる、
という意味である。)
マタイ123
 
イエス様の別名は、
「インマヌエル」です。
 
神様は私達と共に歩むために
イエス様を送ってくださいました。
 
イエス様の十字架を通して罪がゆるされ、
再び神様と共に歩む道が開かれました。
 
 自分の罪を認め、神様におわびをし、
イエス様が私の罪のために
十字架にかかってくださったゆえに、
私の罪のいっさいが
ゆるされていることを信じるなら、
どんな罪もゆるされ、
一点のしみもない雪のように
真白な心にされるのです。
 
あなたは、
もうイエス様を信じましたか。
 
信じる時、
神が共におられる「インマヌエル」
という言葉があなたの人生にも実現するのです。
 
【タマ】 
 

『えっ!まむし?』
 
「まむしのすえたち。
だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
・・・神は、
石こらからでも、
アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」
(マタイ3:7、9
 
自分の生まれや世の名誉
(学歴、経歴、賞与など)
によって誇り、
更に他の人を見下すことがとてつもなく罪深いことと、
わかっていない者たちに対して、
主が叱責しておられます。
 
“生まれ”は主にとって何ら意味をなさないばかりか、
誇っている傲慢さを指摘して「まむし」呼ばわり!
 
イエス様は傲慢がいかにお嫌いか!!
 
同時に生まれがどうあれ、
学歴がどうあれ、
昔がどうあれ、
今、
ありのまま御前にへりくだって出る時、
主は全能の御力をもって、
あなたを恵みの器に造り変えてくださいます。
 
R
 

食べること
 
「人はパンだけで生きるのではなく、
神の口から出る一つ一つのことばによる。」
(マタイ4:4)
 
ある知り合いの医者から、
つぎのようなを聞きました。
 
「自分で食べられるか、
食べられないかが
入院するかどうかの
大切な判断の基準になります。」
私たちは朝・昼・晩と
当たり前のように食事をしますが、
これはとても大切なことなのですね。
 
イエスさまは神のことばは
心にとって食事だと言われました。
 
食事ができるかどうかは、
入院するかどうかを決めるほど大切なことです。
 
神のことばである聖書を大切にしましょう。
 
そして、
毎日読みましょう。
 
(than)
 

主について行く
 
イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
あなたがたを、
人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
 《マタイ4:19、20》
 
 ペテロたちはイエス様に従う時、
すぐに従いました。

 
凄いと思います。

 
私たちはなかなかすぐに
イエス様に従えないで
「どうしようか。」
と考えたり迷ったりする者です。

 
すぐに従える者になりたいですね。

 又、ペテロたちは
漁師という仕事を捨てて
イエス様に従っています。

 私たちもイエス様に従う時、
何か捨てるものがあるのでは
ないでしょうか。

 何を捨てたでしょうか。

 私たちの生活の中で
イエス様について行くのに
邪魔になるものはないでしょうか。

 ある人はクリスチャンになって
タバコを止めました。

 ある人はクリスチャンになって
お酒を止めました。

 ある人はクリスチャンになって
占いを止めました。

 あなたは何を捨てますか。


 (だいずパパ)
 

きよくなる
 
 「心のきよい者は幸いです。
その人は神を見るからです。」
 《マタイ5:8》
 
 この聖書の言葉は私が
初めて行った教会の講壇の上に
掲げてあったみ言葉です。

 きっとその教会の先生は
大切な言葉と思って書かれたのだと思います。


私たちは実際に神様を
見た人はいないでしょう。

 イエス様を見た人もいないでしょう。

 神様が見えるというのは
神様の臨在(そばにおられること)
感じるということです。

 ところが神様はきよいお方です。

 私たちが罪を犯したり、
心の中に罪を持ってままだと
神さまの臨在を感じません。

 目を閉じて祈っていても
神様を感じなくなるのです。

 ですから犯した罪は
十字架で赦してもらわなくではなりませんし、
心の中の罪はイエス様に
きよめて頂く必要があるのです。

 その時だけ神様が見えるのです。

 あなたの心の中の罪は
きよめられましたか。  
 
 (だいずパパ)    
 

平和の王子
 
「平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子と呼ばれるから。」
《マタイ59
 
 最近気に入っているこどものさんびに、
”平和の王子”というのがあります。
 
このさんびで、
「平和の王子」はイエスさまを現していますが、
「平和をつくる」人は、
「神の子」神の王子(王女?)と呼ばれると聖書にあります。
 
わたしたちも「平和の王子」になれるのです。
 
 クラスメイトとの平和、
部活仲間との平和、
家族との平和、
先生との平和・・・、
これらがあったら学校生活も家庭生活も楽しいものになりますね。
 
「平和」は「つくる」ものだと聖書にあります。
 
 今日から、
平和の王子・イエスさまの力によって、
わたしも「平和の王子」として歩めますようにお祈りしスタートしましょう。
 
りべ
 

地の塩
 
「あなたがたは、地の塩です。」
マタイ513
 
 塩には様々な役割がありますが、
ここでは大切なものを二つ挙げます。
 
①防腐作用 
塩によって、
食品は悪くならず、
その生命を保ちます。
 
②対比作用 
スイカに塩をかけると、
甘みが増します。
 
食品にほんの少しの塩を入れることで、
その持ち味が生きるのです。
 
 そういえばおにぎり、
つけものなど身近な、
いろんな食べものがこの①②を同時に満たしています。
 
 イエスさまは、
ご自身を信じる者を、
「地の塩」と言われました。
 
世の中を腐敗から守り、
生かす存在です。
 
 塩はそれ自体では地味なものですが、
世に入って確実なききめを表わします。
 
イエスさまにつながる時、
自分では気づかなくても、
周りを生かしているのです。
 
T
 

キリストの証し
 
 「このように、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父を
あがめるようにしなさい。」 
《マタイ5:16》
 
 私たちの教会に一人では
歩けなくて何時も誰かが
迎えに行って教会に来られている
婦人がおられます。

 その人は腕も自由に動かせません。


 ところが大きな声で賛美し何時も
笑顔を絶やされません。

 ですから教会の人は
その人の姿を見ると元気が出たり、
励まされたりします。

 その人は言葉でイエス様の証しを
するのは余り得意ではありません。

 でもその姿を見て家に来られている
ヘルパーさんも励まされておられるそうです。

 行いでキリストの証しをしているのです。


 私たちも言葉で証しをするのは
苦手かもしれませんね。

 でも、黙々と神様に
感謝しながら学校に行き、
友達と付き合えたら良いですね。

 祈って頑張ってみましょう。


 (だいずパパ)
 

カミングアウト
 
 あなたは、
あなたがクリスチャンであることを、
何人の人が知っていますか?


 私の場合、小学生の頃は、
クラス全員が知っていました。

 ところが、中学生になって、
自分が変わっていると思われたり、
のけ者にされるのではとの恐れから、
言えなくなってしまいました。

 親しい友人のみが知っていました。


同じように、
なかなか言えないという人いますか?


 私は、反省し悔い改めた後、
心がけたことがあります。

 勇気が要りましたが、まずは、
一人の人に打ち明けました。

 そうすると、意外と知れ渡っていくもので、
思わぬ人が知っていたりしたものです。

 試してみてください。

 黙っていてはいけません。


「このように、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父を
あがめるようにしなさい。」
マタイの福音書5:16

(シロクマ)
 

人々の前で輝く光
 
 「このように、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの良い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 
(マタイ5:16
 
 私たちは、
尊敬する人や、
憧れている人に少しでも近づこうとして真似をします。
 
 スポーツ選手や、
様々な分野で成功している人など。
 
 そう考えると、
クリスチャンでも周囲に影響を与える
存在になれるのではないでしょうか?
 
 私たちが神さまとともに歩んでいるならば、
光を放つ存在として、
神さまは私たちを用いてくださいます。
 
 神さまの光が、
私たちを通して放たれるならば、
神さまのもとに導かれる友だちが出てくるかもしれません。
 
 私たちの言動を通して、
クリスチャンとしての光が輝いて、
周囲の人たちに良い証しを立てていけるといいですね。
 
「ぴよ」
 

「雨男」ってホントにいるの?!
 
「天の父は、・・
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」
(マタイ545
 
と書かれています。
 
誰かを指さして「雨男」と
はやし立てている時のアナタは
「正しい人」になってやしませんか?
 
そんなアナタこそ、
本当は「正しくない人」なのに、
神様はアナタの上にも
雨を降らせて下さったのです!
 
むしろ感謝しなければなりません。
 
雨が嫌いなアナタのはずなのに、
出かける前に機転を利かせて傘を手に持って出た瞬間、
雨を望み始めていませんか?
 
雨自体に良いも悪いもありません。
 
自分の都合によって善悪をつけたがる私たちが自己中なのです。
 
それにしても、
正しくもないのに正しい人にもなってしまえる私の上に、
太陽をのぼらせ、
雨を降らせてくださる神様の無限の懐の大きさに圧倒されます。
 
(グッドビレッジ)
 

施しは忘れなさい
 
 「あなたは、施しするとき、
右の手のしていることを
左の手に知られないようにしなさい。」
《マタイ6:3》 
 
 右手ですることも左手で
することも同じ人がするのですから
憶えているは当然です。

 「右手のしていることを
左手に知られないようにしなさい。」
というのは施しをする時は
人に知られないようにしなさい
ということです。

 また、
「施しをしたことは忘れなさい。」
という意味もあるのです。

 私たちは人に施しをしたことは
何時までも憶えているものです。

 それをあえて忘れるように
すべきであるとイエス様は言われているのです。

 そして忘れてはならない
大切なことは私たち自身が
施しを受けたことではないでしようか。

 ややもすると私たちは
「したこと」は憶えていて
「されたこと」は忘れ易いのではないでしょうか。

 気をつけたいですね。
 
 (だいずパパ)
 

 
「父なる神さま」とは
「あなたの声をひと言でもいいから聞きたい、
という存在」という意味です。
 
ある脳神経外科病院のナース長がすごい。
 
寝たきりのご主人を奥さんと一緒に看病し、
刺激与えようとお風呂に入れる。
 
そのうちにこわばっていた腕が柔らかくなり、
指先が動き始め、
植物状態だったのに反応が表れてくる。
 
介護、お風呂の毎日。
 
夫の声をひと言でも聞きたい・・。
 
その時が来ました。
 
その夫の最初のひと言は「あ・り・が・と・・・う」。
 
奥さんはポロポロと泣いていました。
 
たった一言でもいい、
あなたの声が聞きたい。
 
それが父なる神さまの願いです。
 
うまく祈れなくても「父」とは、
あなたの祈り、ひと言をうれしく思うお方です。
 
「あなたの父に祈りなさい。」
マタイ64
 
(ヨップ)
 

『あなたは見られている!?』
 
「隠れた所で見ておられる
あなたの父が、
あなたに報いてくださいます。」
マタイ6:6


 神様が見ておられる!

 以前はそれは何か
見張られているみたいで、
窮屈な気がしました。

 それも、
どこかからこっそりと
見られてる・・・なんて。

 「あっ、しまった!
また罪を犯しちゃった!」
と思った時、
だれも見ていなくても、
神様にはバレてる!?・・・と
恐怖心を抱いたりもしました。

 でも、
イエス様を信じた後は、
神様が見ていてくださるから
安心だなあ、
と感じるようになりました。

 見張っている神様ではなく、
見守ってくださる神様。

 それも、
私をちゃんと正当に
評価して報いてくださる
神様が見ていてくださるのです。

(かわこ)
 

「まず」
 
「はじめのい~っぽ!」
でダルマさんが転んだ、
が始まる。
 
遠くに立っている鬼に、
一歩ずつ近づいて背中にタッチする遊び。
 
聖書の中にもたくさん
「始めの一歩」がある。
 
網を降ろしたから魚が獲れた。
 
水を汲んだらぶどう酒に変わった。
 
自分の弁当を渡したら皆がお腹一杯になった。
 
目を洗ったら見えるようになった。
 
生まれつき足が動かなかったのに立ったら歩けた。
 
足を河の流れに踏み込んだら流れが止まった。
 
歩いて回ったら敵の城壁が崩れ落ちた。
 
まだまだあるけど、
全部神さまの言葉を
信じて踏み出した一歩の結果。
 
ごめんなさいとお詫びしたから赦された。
 
信じたら救われた。
 
感謝をしたら笑顔になった。
 
今日も私たちの目の前にあるよ、
始めの一歩!
 
『たたきなさい。
そうすれば開かれます。』
(マタイ6:7)
 
  びい
 

 
●野のユリを見なさい!
「野のゆりが
どのようにして育つのか、
よくわきまえなさい。」
《マタイ628

 
 春を迎えると、
大自然がいっせいに
新しい命に包まれます。

 庭の木々も、
いっせいに芽を出して、
葉を茂らせ、
花を咲かせています。

 あの小さい体のどこに、
あのような命が
秘められていたのだろうか、
と不思議に思います。

 しかも、
草も虫も、
鳥たちも、
その時を知っている
というのは驚きです。

 イエス様は、
野原で集まってくる
沢山の人たちに教えられました。

 もちろん、
建物には
入りきれないくらいの人が
押しかけたからでしょうが、
イエス様は大自然の中で
お話なさるのが
好きだったのではないでしょうか。

 小さな花や鳥たちを
指さしながら、
“不安に覚えている花、
心配して震えている
鳥なんていないでしょ!”と、
明るく、
楽しく教えておられる
イエス様の姿が
目に浮かびます。

 私たちの目を
大自然に向けましょう。

 その一つ一つが輝いて、
神様を賛美しています。


『ジョン』
 

心配するのはやめなさい
 
 「そういうわけだから、
何を食べるか。
何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。」 
《マタイ6:31》
 
 私たちは家にいても、
学校に行っていても、
仕事をしていても生活の中で
色んなことを心配します。

 また、気をつかったり、
心遣いをしたりしながら
皆生きてます。

 それは当然のことですね。

 ここでイエス様が言われている
「心配」という言葉の意味は
「思い煩う」という意味です。

 思い煩いというのは自分の力や努力で
どうにもならないことを心配することです。

 もっと言うならば神の領域まで
入って心配することなのです。

 私たちは自分のことで気をつけたり、
人に心遣いをしたりするのは当然です。

 でも神の領域にまで入って
心配してはいけません。

 そこは神に委ねなければなりませんね。

 信仰を使いましょう。
 
(だいずパパ)
 

『だってイエスさまは♪』
 
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」
(マタイ6:33)
 
教会学校さんび歌は率直に真理を示してくれます。
 
「どんなにさみしいときにも・・・
イエス様が一番・・・
だってイエス様は神様だもの~♪
だってイエス様は神様だもの~♪」
 
単純にイエス様は神様だから大丈夫!
 
と信じ切る時、
心が明るくなります。
 
イエス様が生きておられ、
こんな私を省みてくださるという主のご愛を体験する時、
天にも登る麗しい祝福となるからでしょう。
 
他では得られない恵みを味わうからこそ、
主のために犠牲を払っても神様を第一に求めようするのです。
 
実にキリスト教の歴史はこのスピリットに
生き抜いた人によって築き上げられてきました。
あなたもその一人に!
 
R
 

なにを選ぶ?
 
「だから、
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、
それに加えて、
これらのものはすべて与えられます。」
マタイ6:33
 
 部活、
バイト、
教会、
身体がいくつか欲しくなる。
 
なにを優先して選ぶのか?
 
わかってはいるけど難しい。
 
何かを選ぶとそれ以外を捨てること、
あきらめることになるから…
けれど神様の世界では逆で、
神様が喜ぶほうを選んだら、
別の方も形を変えて返ってくる。
 
 高校時代、
部活(吹奏楽)の大会よりも聖会を選んだ。
 
その聖会で将来を示され、
牧師になった。
 
今、
教会でクリスマスに楽器を吹いている。
 
形を変えて返ってきた。
 
高校卒業後、
しばらく福祉の仕事をしていた。
 
その仕事を捨てて、
神学院に入った。神学院教会では、
礼拝に近くの高齢者施設から出席される方々がいる。
 
礼拝前にお迎えに行っていた。
 
形を変えて返ってきた。
 
ほかにも、
神様はいつも私たちの選択に愛と真実で応えてくださる。
 
今日も神の国と神の義をまず第一に求め、
神様の喜ばれるものを選択していきたい。
 
「おばあちゃん」
 

アート引越センターから学べること
 
作業する人間が新居に
荷物を運ぶ前に新しい靴下に履き替えること、
一人暮らしの女性の引越しには
女性スタッフだけを派遣すること、
他にもありますが、
これらを読んでピンときますか?
 
CMでおなじみの“アート引越センター”です。
 
創業者である女社長は「自分が引越しするなら、
どうしてもらいたいか。
 
想像力を少し働かせば誰でも考えつきます。」と、
そのアイデアの秘訣を語っていました。
 
「何事でも、
自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい。」
(マタイ712
 
と教えられ、
実践されたのはイエス様でした。
 
結局、
人のニーズに応えようとする愛は、
自分のニーズを考えてみることから始まるようです。
 
(グッドビレッジ)
 

少数派
 
「狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は大きく、
その道は広いからです。
そして、
そこから入って行く者が多いのです。」
 《マタイ7:13》
 
日本のクリスチャン人口は
1パーセント以下です。

 
クリスチャンは文字通り
少数派です。

 
ですから私たちは
「私はクリスチャンです。」
というと特別な目で
見られることがありますし、
少し肩身の狭い思いを
することもありますね。


人が自分の罪認め、
罪を悔い改めて、
キリストの十字架を
信じるというのは
大変狭い門だと思います。

 
人はなかなか自分の罪を
認めようとしませんし、
悔い改めません。

 
ましてや2000年以上前の
キリストの十字架を
信じようとしません。

 
でも、
真理は大きな門にあるのではないのです。

 
数が多いから真理でもないのです。

 
クリスチャンは少数派ですが真理の道、
救いの道を歩いているのです。

 
自信を持って歩いて行こう。
 
(だいずパパ)
 

前向きの信仰
 
「さあ行きなさい。
あなたの信じたとおりになるように。」
すると、ちょうどその時、
そのしもべはいやされた。
 《マタイ8:13》


 百人隊長は
しもべの病気が治ると信じた。

 その時、しもべは癒されたのです。

 この百人隊長の信仰は前向きですね。


ある牧師さんが
知り合いのおすし屋さんに行きました。

 その牧師さんは
「おやじさんのお寿司は美味しいね。
日本一だよ。」
と自然と褒め言葉が出てしまうそうです。

 すると、
おすし屋さんのおやじさんは
サービスで余分に何かを握ってくれるそうです。


神様はおすし屋さんの
おやじさんではないですが、
何時も神様に文句ばかり
言っている人と神様に
感謝し喜んでいる人と
どちらの人に恵みを
注いでくれるでしょうか。

 やっぱり喜んで感謝しながら
信仰生活をしている人ではないでしょうか。

 私たちも何時も前向きの
信仰で頑張りましょう。


(だいずパパ)
 

神のご支配
 
イエスは言われた
「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」
それから、起き上がって、
風と湖をしかりつけられると、
大なぎになった。
 《マタイ8:26》
 
 女性のサーファーがいました。

 ある時、サメに襲われて
左腕を食いちぎられてしまいました。

 ところがその女性は一ヵ月後、
海に戻ってサーフィンをしていたのです。

 その女性は答えました。

 「真面目に一生懸命生きている人に
どうして悲しいことが起こるのか、
私には分からない。」 

 あなたがキリストを
信じるということは
どんな意味がありますか。 

 彼女は答えました。

 「私にとってキリストは
私のすべてです。」

 彼女は確かに
悲しいことを経験しました。

 しかし、
彼女はキリストを信じていた。

 そんな彼女も人生に
次々起こる出来事、
一つ一つを説明する事
出来ないかもしれません。

 でも全てを支配し、
導いておられる神が
おられる事を知っていたのです。

 私達に起きる出来事を
全て説明できる人はいません。

 でも神は全てを
支配しておられるのです。


(だいずパパ)
 

クリスチャンの仕事
 
 イエスは言われた。
「なぜこわがるのか、
信仰の薄いものたちだ。」
それから、起き上がって、
風と湖をしかりつけられると、
大なぎになった。  
《マタイ8:26》
 
 私たちは学校や社会で
生活していると様々な
出来事に遭遇し、
心配したり、悩んだり、
トラブルに巻き込まれたりします。

 私たちはそんな風や波を見て
立ちすくんでしまうのではないでしょうか。

 弟子達もそうだったのです。

 でも彼らはイエス様に訴えました。

 すぐにイエス様に助けを求めたのです。

 イエス様は嵐をしずめ、
弟子達を助けられました。


 マルチン・ルターは言いました。

 「服を作るのが仕立て屋の仕事であり、
靴を直すので靴屋の仕事であるように、
祈ることはクリスチャンの仕事である。」


 私たちも悩む前に、
立ちすくむ前に主に祈って
クリスチャンの仕事をしましょう。

 イエス様に助けを求めましょう。

 主は今日も私たちを助けて下さるのです。


 (だいずパパ)
 

マタイの召命
 
イエスはそこを去って
道を通りながら、
収税所にすわっている
マタイという人をご覧になって、
「わたしについて来なさい。」
と言われた。すると、
彼は立ち上がって、イエスに従った。
《マタイ9:9》
 
 収税所で働いていたマタイは
イエス様の声に従って働き人になりました。

 現代は牧師になる人が
少ない時代です。

 確かに牧師の仕事は
簡単な仕事ではありませんし、
経済的にも大変かもしれません。


 でも誰かがイエス様のことを
伝えなくては人が滅んでしまうのです。

 オーストラリアの砂浜に
大潮の時に何千匹もの
ヒトデが打ち上げられる場所があるそうです。

 ある朝一人の人が砂浜を歩いていました。

 すると一人の少年が
ヒトデを拾っては海に投げ込んでいたのです。

その人は言いました。

「君のしていることは良く分かるよ。
でもヒトデは何千匹もいるし、
何マイルも砂浜は続いているよ。
余り意味がないよ。」
少年は答えました。

 「分からない。でも、
この一匹にとっては大きな違いなんだよ。」 
あなたもヒトデを助ける少年になって、
人を永遠の滅びから助ける人になりませんか。


 (だいずパパ)
 

あなたの食卓に招いてください
 
「わたしは正しい人を招くためではなく、
罪人を招くために来たのです。」
(マタイ9:13
 
 通常、律法学者たちは食卓に「仕切り」
(今でいうパーティション)を設けていました。
 
それは「きよい」自分たちと「汚れ」を帯びている人
(取税人や遊女たちなど)が顔を合わさないためです。
 
彼らと食事をするイエス様の行為は
律法学者たちにしてみれば非常識であり、
不愉快でした。
 
しかし、
冒頭のイエス様の答えには「正しい」宗教家たちを
退けようとの気持ちはなく、
むしろ招きの意味が込められています。
 
「自分はあの者たちとは違うんだという、
狭くて冷たい“正しさ”こそがあなたがたの罪なのだ。
 
さあ仕切りなど取り除いて、
わたしと一緒に食事をしよう。」イエス様、
自己義に立てこもる私を解放し、
あなたの食卓に招いてください。
 
(グッドビレッジ)
 

まかせる信仰
  
「すると、見よ。
12年の間長血を
わずらっている女がイエスのう
しろに来て、その着物のふさにさわった。」
《マタイ9:20》
                  
イエス様の周りには
沢山の人が集まっていました。

 しかも、彼らはイエス様に
触れていたでしょう。

 ところがイエス様の
身体から力を引き出し、
癒されたのはこの婦人だけだったのです。

 不思議ですね。

 なぜでしょうか。

 それはこの婦人は
「イエス様の衣にさえ、
触ったら癒される。」
と信仰を持って触ったからです。


「分る」と「信じる」のとは違います。

 「信じる」とはイエス様に自分の存在を
すべてまかせることなのです。
 
長血の婦人は自分の存在を
すべてイエス様にまかせたのです。
 
私たちはイエス様を
信じると言いながら、
すべてをまかせているでしょうか。

 それとも都合のいいように
イエス様を利用しているのでしょうか。

 イエス様にすべてをおまかせしましょう。
 
(だいずパパ)

 
《マタイ11:28》

 

休息の場所
 
 「すべて、疲れた人、
重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
《マタイ11:28》
 
今、大津市がいじめの
問題で揺れています。

 それは何も大津市だけの
問題ではありませんね。

 どうして「いじめ」は
なくならないのでしょうか。

 いじめられると悲しいですね。

 逆にいじめても決して
楽しくないのです。

 そうと分かっているのに
いじめがなくなりません。


それは、一人ひとりが
本当の休み場所、
安心する場所を持って
いないからではないでしょうか。

 以前、家は休息の場所でした。

 でも今はそうではないのです。

 学校もそうではありませんね。

 そのストレスを誰かに、
何かにぶつけなくては
人はやっていけません。

 それがいじめという形で
表れているのではないでしょうか。

 イエス様はすべての人の
休み場所になって下さるお方です。

 皆がイエス様に休み場所を
見つけてくれたら良いですね。

 あなたも教会に友達を
誘ってみてはどうでしょう。


(だいずパパ)
 

 
「畑に隠された宝」
 
 「天の御国は、
畑に隠された宝のようなものです。」
(マタイ1344
 
 戦争が続いた時代、
財産全部を持って
逃げられないお金持ちは、
いつか無事に帰宅した
時掘り返そうという算段で、
宝を土に埋めました。
 
 時が過ぎ、
売買の上でその土地の
所有者になった人が宝物を見つけた場合、
堂々と「自分の物」と言う事ができる、
というのが当時のしきたり。
 
 耕してみたらお宝発見…
どんなに嬉しかったでしょうね。
 
 イエス様は、
土におおわれた宝のように、
こっそりと隠れた形で
私達のもとに来て下さいました。
 
 「こんな自分なんか」と、
自分でもほとほとがっかりするような私達でも、
恐れず身構えずに近づく事ができる為、
そして、
この方は私の救い主、
と信じる者に、
赦しといのちを与える
宝そのものになって下さる為です。
 
ゆらまり
 

「主の手に」
 
『それを、ここに持って来なさい。』
 
お腹をすかせた五千人以上の人を前に、
そこにあった食材は、
一人の少年のお弁当のパン5個と魚が2匹だけ。
 
でもイエス様の手に渡したら、
皆が満腹する程のものになった。
 
私達が今やっている勉強、
励んでいる部活、持っている力、
才能、可能性、
それらは自分のために使ったら
自分のお腹は一杯になるかもしれないけど、
それだけだ。
 
でもイエス様の手に渡したら、
自分でも信じられない位に用いられて、
たくさんの人が神さまの恵みを受けて、
神さまの素晴らしさが
輝き出るために用いられるかもしれない。
 
今あなたの手には何がある?
 
それをイエス様の手に渡してごらん。
 
無駄に見える勉強も、
全部、驚くほど役立つ、
素晴らしいものに変えられるから。
 
びい
 

「同年代のクリスチャンの友がいますか?」
 
イエス様は一人で信仰生活を送りなさいとは言われず、
教会を建て、
その交わりの中で信仰を保ちなさいと言われました。
 
教会にある友の励ましと仲間のつながりの中でこそ、
信仰が育てられると教えられたのです。
 
時には一人がいいと思うことがあるかもしれません。
 
でも同じ信仰の仲間との環境が
あなたにも与えられるように祈ります。
 
 もし同年代の友がいなかったら祈りましょう。
 
そして青年大会などにも出てみてください。
 
きっとすてきな信仰の友が与えられます。
 
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マタイ1618節) 
 
(ヨップ)
 

子どもになりきれる大人になろう
 
皮肉なことですが、
「天の御国では、
だれが一番偉いのでしょうか」
(マタイ18:1)
 
なんて聞けるような人は
天国に入ることすら許されません。
 
イエス様は弟子たちに
「子どものように、
自分を低くする者が、
天の御国で一番偉い人です」
(同4)とおっしゃり、
愛で彼らを包み込まれたのです。
 
中高生の皆さん、
これからどんなに素晴らしい経験を積み上げても、
どうか「正しすぎる大人」になって偉くならないでください。
 
むしろ、
「子どもになりきれる大人」になってください。
 
あなたを悔い改めに向かわせる
子どものような素直さは、
あなたを天国に引き上げる
ロープの役割を果たします。
 
そんなあなたは天国でイエス様の誇りです。
 
(グッドビレッジ)
 

「私に語りかける」
 
『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
 
14歳になる時に心に響いた
この聖言を信じて人生を決めた。
 
ぶどう園に就職して農夫にではなく、
牧師になった。
 
あのたとえ話の一節を用いて、
イエス様が私に、
伝道者になるように語りかけられたと信じているから。
 
何故そんな風に理解したんだろう?
 
聞き間違えじゃなかったのか?
 
問われても上手く説明できないかもしれない。
 
でも、今日も言えることは、
聖霊が私の心にそのように
弁えさせてくださったのだろう、
という納得。
 
そうと信じて歩み続ける時に
与えられている平安。
 
聖霊は今も生きて、
ダイレクトに語りかけてくださる。
 
時には理解を超えた強い導きを与えてくださる。
 
聖言をダイナミックに信じて生きてみないか?
 
びい
 

 
だれかが何か言ったら
 
 
「もしだれかが何か言ったら、
『主がお入用なのです。』と言いなさい。
そうすれば、すぐに渡してくれます。」
(マタイ 213
 
 
イエスさまが最後に都を訪れる場面
(ちょうど優勝パレードのような状況)。
 
お乗りになるために選ばれたのは、
ろばの子でした。
 
「それは『まだだれも乗ったことがない』ろばの子で、
連れて行こうとすると、
だれかが『なぜ、ほどくのか』
(何の役にも立ちはしないよ)と尋ねるだろう。
 
そうしたら言いなさい。
 
『主がお入用なのです(神様が必要としておられます)』」と。
 
やがて、ろばの子はイエスさまをお乗せして、
歓声で沸き返る街道の中を進んで行きます…。
 
やらなきゃいけないってわかっていても、
だれかに何か言われるんじゃないかと思って、
尻込みしまうこと、ありませんか?
 
「あなたが必要だよ、あなたなら大丈夫」と、
イエス様はお声をかけてくださいます。
 
 
*まわりの目や声が気になってたけど、
イエス様の声を心に聞いて、やってみます。
 
 
〝メガネいちば〟
 

忠実なしもべ
 
 「よくやった。
良い忠実なしもべだ。」 
(マタイ2521&23
 
 小さい時には全く気にならなかった他人のことが、
学校に行き出すと、
いろいろと気になるものですね。
 
 特に中学・高校になると、
学力や他の面で人との差が出てきて、
自然に自分と人とを比べるようになっていきます。
 
あの人は何でもできる。でも私は・・・。
 
 その差を見て落ち込んだり、
やる気をなくしたり、
あるいは自分の得意なものだけは絶対に負けたくない!!
と過剰反応を見せたり・・・。
 
 でも、
それぞれに、
出来るもの出来ないものがあるように、
あなたにも神さまから与えられている
素晴しいタラントがあるのではないでしょうか?
 
 中高生の時は、
特に人が気になる年代ですが、
そこにばかり目を留めずに神さまに目を向ければ、
神さまが私に与えてくださっている素晴しいタラントを見つけることができるはず!
 
 自分のタラントを見つけて、
それを神さまのために精一杯使っていくならば、
「よくやった! 良い忠実なしもべだ!」と、
神さまのお褒めに与ることができます。
 
 人と自分を比べることほど、
つまらないことはありませんね。
 
向けるべき所に目を向ければ、
人のことが気になるという思いから脱出できるはず!!
 
 試しにやってみたら?「ぴよ」
 

「新しい使命」
 
 「それゆえ、
あなたがたは行って、
あらゆる国の人々を弟子としなさい。
・・・見よ。わたしは、
世の終わりまで、
いつもあなたがたとともにいます。」
マタイ281920
 
イエス様はクリスチャンに新しい使命を与えられました。
 
それはイエス様とその救いを全世界の人に伝えることです。
 
親であれば、
愛する子どもが家に帰ってくるのを楽しみに待つでしょうし、
一刻も早く会いたいと願うものです。
 
それなのに、
なぜ神様は愛する子どもであるクリスチャンを
すぐに天国へ迎えないのでしょうか。
 
それは、
この世界で福音を伝えるという
大きな使命があるからです。
 
あなたは何のために勉強していますか。
 
何のために就職しますか。
 
お金をもうけるためですか?
 
社会で生きて行くためですか?
 
イエス様から与えられている使命の中で
もう一度考えてみましょう。
 
そして家族や友人が救われるために
祈ることから始めてみませんか。
 
教会に誘う機会が与えられるように求めてみましょう。
 
【タマ】
 

つながっていること
 
「見よ。わたしは、世の終わりまで、
いつも、あなたがとともにいます。」
(マタイ28:20)
 私たちはケータイでもLINEでも
 「人とつながっていること」を
 とても大切にします。
 
 あまりに大切にしすぎて、
つながっていなければ
不安になってしまうほどです。
 
 しかし、
私たちと切れてしまうことなく、
本当につながり続けてくださるのは
イエスさまです。
 
 イエスさまは、
昨日も今日も永遠に変わることなく、
どんなときでもわたしたちを
愛して、私とともにいてくださるお方。
 
 これほどすばらしいことはありません。
 
 イエスさまとつながり続けることを、
一番大事なことにしましょう。
 
(than)
 

あのときのから揚げの味
 
「見よ。
わたしは、
世の終わりまで、
いつも、
あなたがたとともにいます。」
(マタイ2820
 
 ある子が病気で入院しているときのことを振り返ってこう言いました。
 
「あのとき食べたから揚げ、
メチャおいしかった。あの味は忘れられない」と。
 
病院食ってあまりおいしくないと思うのですが、
この子が食べた病院食はおいしかったのです。
 
特別なから揚げだったからでしょうか。
 
いいえ。
 
そうではなく、
この子が病気で苦しんでいるとき、
家族が付きそってくれたから、
その親の愛情がから揚げの味になって強く印象に残ったのです。
 
私たちは自分がつらいとき、
だれかについていてもらいたいのです。
 
つらさを抱える私たちのそばにいつもいっしょにいてくれる方、
それがイエスさまです。
 
(友)