『神様の特許』
「わたしが聖であるから、
あなたがたも、
聖でなければならない。」
(Ⅰペテロ1:16)
IGMは、
『聖宣』といいますように、
『聖』=きよきに生きる群れです。
それは、主ご自身が聖だからです。
「聖め」とは、
私のためにいのちを捨ててくださった主のご愛に触れ、
すべてを捧げる時に、
神が自我(罪)をきよめてくださる恵みです。
あなたの歩みの主導権は神様ですか、
自分ですか?
自分のやりたい様に神様を使って
祈るというのはことばが過ぎますが、
案外多いのでは?
聖句に「あなたがたも」とあるように、
主はすべての人にきよくあってほしいと願っておられます。
聖であることは、
イエス様に似た者になり、
主に用いられるための第一歩ですから、
主が与えないはずはありません。
(R)
本気で信頼
主のもとに来なさい。
主は、人には捨てられたが、
神の目には、選ばれた、
尊い、生ける石です。
Ⅰペテロ2:4
日本の天気予報は
かなりの高確率で
あたると世界で評判
もう一つの評判は、
予報が外れると
予報士さんがみんなに謝る
外国の方々には
不思議だそうです
よくよく考えてみると
天候変化は不確かな要素だらけだし
人が自然を動かしているわけじゃないので
予報士さんに謝らせるなんて
変だなとは思いつつも
「晴れるって言ってたのに……」
と、ついつい言っちゃう
予報って、結局予報なのに
予報以上のものを期待しちゃう
そのくせ
主イエスの約束
たとえば、いつもともに
おられるということ
天気予報よりも真剣に
あてにしているのかな
クリスチャンなんだから
神のこと ば、神の約束を
本気であてにしてみようよ
「なた」
りっぱ
「異邦人の中にあって、
りっぱにふるまいなさい。
そうすれば、
彼らは、
何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、
あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、
おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
Ⅰペテロ2:12
給食や弁当の時間など、
食前のお祈りをどうするか?
けっこう悩むところ…
私は何も気にせずみんなと同じように
祈らずに食べる時期もあれば、
気になってすごく短い祈りをして食べる時期、
「なにボーっとしてるん?」とたまにつっこまれながら、
目をあけたまま祈って食べる時期もあった。
ある時ファストフード店で、
隣のテーブルにカップルっぽい2人組が座った。
すると2人は食前の祈りを始めた。
同世代くらいの2人があまりに自然に祈るので尊敬した。
同じ店にクリスチャンがいることも嬉しかった。
「私もこうなりたい!」その頃から、
どこでも普段どおり祈れるようになった気がする。
いつでもどこでも神様の前に自然にありのまま…
それが結果的にりっぱなんだろうな。
「おばあちゃん」
十字架のくぎ
「そして自分から十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、
あなたがたは、いやされたのです。」
Ⅰペテロ2:24
MEBIGの賛美歌に
「十字架のくぎ」という曲がある。
この曲に初めて出会った時、
心臓がギュ―っとなった。
自分はそれまで「十字架のくぎ=私」
とまで思ったことがなかった。
歌うごとにこの賛美歌が自分の告白となっていく。
そのたびごとにイエス様の十字架に近づき、
癒されていく気がする。
今日も賛美して、
告白をして、
一日をスタートしたい。
「おばあちゃん」
寄り添う勇気
「キリストの打ち傷のゆえに、
あなたがたは、
いやされたのです。」
(Ⅰペテロ2:24)
黙って寄り添うことって、
けっこうむずかしいです。
人は沈黙に耐えられなくて、
問題をかかえて苦しんでいる人と向き合うと、
何かを話さなければならないと思ってしまいます。
友達から悩みを打ち明けられ落ち込んでいるとき、
何と言っていいかわからず「がんばれ!」と励ますのですが…。
そんなとき、
そっと寄り添う勇気が持てたらと思います。
病院で病める方の足を静かにさすって、
黙って寄り添っている人の姿を見たことがありますが、
そのように人の痛みがわかる人になりたいと思います。
十字架のイエスさまの苦しみが私のためだったことがわかると、
人の痛みもわかり寄り添うことができる人になれます。
(友)
おしゃれ
「むしろ、
柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、
心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」
(Ⅰペテロ3:4)
non-no、Sweet、MORE、Seventeen…。
Samurai Magazine、MEN’S NON-NO、411、Ollie…。
男女を問わず世にはたくさんのファッション雑誌があるものですね。
教会に来るようになったある子に趣味は?
と聞いたら、
オシャレと即答で返ってきました。
確かになかなかのセンスです。
外はどれだけでも飾ることはできるけれど、
心の中を飾ることは簡単にはいきません。
でもイエスさまは心の中を飾ることのできるスペシャリストです。
だから、
今から心の中のことを考える人になれたら、
信頼される大人になること間違いなしです!
(友)
●「しか」と「なら」
「それぞれが賜物を
受けているのですから、
神のさまざまな恵みの
良い管理者として、
その賜物を用いて、
互いに支え合いなさい。」
《Ⅰペテロ4:10》
このあいだ、
教育についての
新聞の記事が心に留まりました。
「この子は
足し算しかできない。」
「この子は
足し算なら出来る。」
同じ事柄を
「しか」と見るか、
「なら」と見るかで、
全く違う印象を与えるというのです。
私たちも、
自分の姿や、
他の人の姿を見て、
「しか」「しか」を
連発していないでしょうか。
さらに、
素晴らしい人と自分を比較して、
「私は~しか」と
言ってガッカリしていることは
ないでしょうか。
見方を変えてみましょう。
「私にも~なら出来る!」
神様はそれぞれに
素晴らしい賜物を
与えていてくださるのです。
それを比較するためではなく、
互いを支え合うために
用いることが出来たら、
素晴らしいですね。
『ジョン』
ハンカチ一枚
「あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを
心配してくださるからです。」
《Ⅰペテロ5:7》
kg cm \
・・・いろいろな単位がありますが、
悩みの大きさに単位はないと思います。
この悩みは10ナヤーミ、
こっちは15ナヤーミ、
などと表せません。
その人にとって大きいと思えば大きいし、
小さいと思えば小さいのです。
ある人にとっては、
ハンカチ1枚でも”ずっしり”なのです。
けれども、
悩みや心配ごとの大小が
問題なのではなくて、
それを誰が持っているかが大切です。
聖書に「いっさい」
「全部」神様にゆだねなさいとあります。
お祈りしながら自分で
持ち続けていませんか?
今心に持っている悩みは何ですか?
1回神様に渡しましょう。
「心配」するのはわたしではなく、
神様です。
りべ