イエスさまが力を下さる
 
「キリストは神の力、神の知恵なのです。」
(Ⅰコリント1:24
 
 私の祖母は、
戦争ですべてを失いました―正確には、
夫、長男、義父、財産、店舗兼住宅、工場。
 
残されたのは、
6人の子供と義母。戦後、彼女は、
8人家族の住む場所を探すことから始め、
ひたすら働きました。
 
夜、休む前のひと時、子供たちに、
イエスさまが天から迎えに来られる(再臨)時の話をする時、
まるで目の前にイエスさまがおられるかのように話しました。
 
絶望的な現実の中で、
イエスさまご自身の力をいただき、
仕事でであう人々に救いの喜びを伝え、
子供たちを育てました。
 
96歳で天に帰る前、
私に残してくれた言葉は
「イエスさまが、力をくださる」です。
 
(ふ)
 

誇(ほこ)り
 
「…これは、
神の御前でだれをも誇らせないためです。
…まさしく、
「誇る者は主を誇れ」と
書いてあるとおりになるためです。」
(Ⅰコリント 12931
 
「誇(ほこ)り」。
 
 同じような意味で、
自慢、
ということばもありますが、
「誇り」には、
「自慢」ほど自己主張っぽい空気は
感じられません。
 
 海外の日本人サッカー選手が、
その活躍を自慢するよりは、
むしろ〝チームの仲間や指揮官のおかげです〟
と言って、
人々の称賛の的を他の人に
移している姿を見たりすると、
誇りの良い面を知ることができますね。
 
 自分のことを考えると、
どうして私が救われたのだろう、
と不思議ですが、
神様はあえて愚かな人、
弱い人を召され、
選ばれた、
と聞くと、
確かにそうだよな、
と思います。
 
 だから、
自分の持っている何かや行いなどは、
とうてい誇れません。
 
 じゃあ、
誇りの良い面は?
 
 「主を誇れ」―素直に、
称賛の的をイエス様に移すことができますよね。
 
*こんな私を救ってくださったイエス様、
 あなたをいつでも誇りとします。
 
〝メガネいちば〟

『聖霊の住まい』
 
「あなたがたのからだは、
あなたがたのうちにすまれる、
神から受けた聖霊の宮」
Ⅰコリント6:19
 
 数年前、
近所の幼稚園に皇太子ご夫妻が
訪問されることになり、
その幼稚園はもちろんのこと、
周辺の道路までが
見違えるように
キレイになりました。

 お迎えるする方にふさわしく、
ということだったのでしょう。

 さて、
「私たちは聖霊の宮」
と言われています。

 聖霊なる神様が
普通の中高生である私たちの中に
住まっていてくださると聞いて、
びっくりしますか?

 でも神様は私たちが
イエス様を信じたその時、
罪を赦してくださり、
そこをご自分の住まいと
してくださったのです。

 だから、
私たちは内にいてくださる
聖霊にふさわしい生活が
できるといいですね。

 聖霊はそれができる力も
与えてくださる神様です。

(かわこ)
 

「私は誰のもの?①」
 
自分が誰のものかということは、
小さいようで大きいことです。
 
自分は自分のもの、
自分のことは自分で決める。
 
そのような時代ですが、
私は主のもの、
主が一切の責任を負ってくださるという平安があります。
 
ある教会の先生が消防団員となった時、
新しい消防車が納車されました。
 
「どこでお祓いしてもらおうか。
神社にしようか、お寺にしようか。」
という会話になった時、
ひとりの人から
「教会で結婚式をするでしょう。
ならばどうにかなりませんか。」
と言われ「分かりました、お祈りしましょう。」
という事になりました。
 
その後「お守りは…」とのひと言に
「いいものがあります、お祈り済みのしるしに…」
と魚印のステッカーを消防車に貼りました。
 
 
「私は誰のもの?②」
 
そのステッカーは
「イエス・キリスト、神の御子、救い主」
を意味する魚マークのステッカーです。
 
神様のものとされた消防車が町の中を走っているなんて、
なんてステキなことでしょう。
 
急な火事があっても安心して消火作業に当たれます。
 
主のものとされ、
イエス様が必ず災いからも
守ってくださるという安心感は大きいものです。
 
あなたは誰のものですか。
 
十字架により、
イエス様の死のよって買取られ、
主のものとされた恵みに生きましょう。
 
「あなたがたは、
代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現わしなさい。」
(Ⅰコリント6:20)
 
 ヨップ
 

「大切な宝物」
 
「あなたがたのからだは、
あなたがたのうちに住まれる、
神から受けた聖霊の宮であり…
あなたがたは、
代価を払って買い取られたのです。」
(
第一コリント61920)


 我が家には小さな犬がいます。

 ペットショップで半年以上売れ残っていて、
必死に助けてくれと
言わんばかりに見つめていました。

 そのなんとも言えない子犬の眼差しに負けて()

 我が家に迎えることになりました。

 今では家族の一員で、
大切な存在です。

 ただそこにいるだけで
本当に愛おしくてたまりません。

 神様も同じように私たちを
見ているのではないでしょうか。

 お金を払って買った子犬が
これほどかわいいなら、
神さまは、
命をかけて救い出した私たちを
どれ程愛おしく
大切に思っておられるでしょう。

 しかも一緒にいるだけでなく、
その心の中に住んで下さると言うのです。

 私たちは、
それほどまでに
大切な大切な神様の宝物です。

 どうかこのことを忘れないでください。

 その体や心が傷つけば、
神さまは本当に悲しまれます。

 神様に愛されている人として、
自分自身を大切に出来る人になれますように。

 自分を大切に出来る時、
他の人も大切にすることが
出来るようになります。

(
アップル)
 

携帯を管理しよう
 
「あなたがたは、
食べるにも飲むにも、
何をするにも、
ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」
(Ⅰコリント1031
 
 2011年内閣府の調査によると、
小学生~高校生までの携帯・スマホ所有率は約49%。
 
一日の携帯でのネット利用時間(メール・サイト閲覧)は中学生で平均65分。
 
高校生で平均106分。
 
この数字をどう思いますか?
私も多くの連絡を携帯で行っています。
 
今や携帯は手放せない道具の一つになっています。
 
でも、
道具に振り回され奴隷になっちゃいけないよね。
 
道具は神さまの栄光を現わすために私たちが正しく管理してこそ、
意味をなすものだから。
 
(友)
 

対話――大人(おとな)って
 
「私が子どもであったときには、
子どもとして話し、子どもとして考え、
子どもとして論じましたが、おとなになったときには、
子どものことをやめました。」
(Ⅰコリント 1311
 
大人への期待、あこがれ、
そして、幻滅(げんめつ)。
 
大人って…。
 
皆さんには、大人
(ざっくり言って、ご両親世代かな?)って、
どんな風に映っていますか?
 
これを書いている私も、
一応、その世代の大人。
 
この場を借りて(ごめんね)考えてみる。
 
どんな大人がいいのだろう?
 
〝若い世代には関心がないね。
 
ボクはボクの青春を充分に生きたい。
 
それを過ぎた今を今なりに充分に生きたいから、
他人の青春になんかかまっていられない〟
 
なんて言いきっちゃう大人
(映画監督のF・フェリーニ)のコメントに、
ちょっぴり刺激を受けたりして…。
 
充分に生きていると見えないところに、
課題がありそうな。どうか、祈ってください。
 
大人たちのために。
 
その世代を充分に生きられるように。
 
それは、やがての、
君たちの問題にもなるのだから。
 
〝メガネいちば〟
 

ともだち
 
「思い違いをしてはいけません。
友達が悪ければ、
良い習慣がそこなわれます。」
《Ⅰコリント1533
 
 先日電車に乗っていたら、
高校生ぐらいの二人の女の子が乗ってきました。
 
その二人は、
髪型から服からバッグ、
靴まで同じような格好をしていました。
 
仲良しのともだちと毎日一緒にいると、
お互いにいろいろ感化されます。
 
音楽の好みや、
ファッション、
食べ物の好み、
考え方にまで影響を受けたりします。
 
 お互い良い感化を与え合うともだちは、「一生の宝」でしょう。
 
逆にわたしたちは、
悪い影響も受けやすいことを知っています。
 
知らず知らずのうちに、
神様を計算に入れない考え方に感化されてしまうことがあります。
 
 神様に「良い友」が与えられますように、
また「良い友」となれますように、
そして「悪い感化」から守られますように、
今日も祈って出発しましょう。
 
りべ
 

 
ある女性が末期ガンで入院しました。
 
しかし、
誰も彼女に近づこうとはしません。
 
死の恐れでまわりの人に当り散らしていたからです。
 
手が掛かるので、
皆その人を避けています。
 
そこに一人の看護師が頼まれ、
彼女の世話をしました。
 
「大丈夫ですよ、神さまが天国に入れてくださいます。」
 
彼女は言いました。
 
「私は天国には行けない、
あなたのように心を込めて仕事をしなかったから…」長い間、
彼女は家政婦として働いてきました。
 
「心に引っ掛かることがあったらなんでも神さまに祈りましょう。」
 
次の日、
彼女は変わりました。
 
「先生もう、痛み止めはいりません。
天国に行けるから大丈夫です。」
そのあまりの変化にまわりの人々が驚きました。
 
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」
Ⅰコリント15:55
 
ヨップ
 

いい香り
「私たちは、
救われる人々の中でも、
滅びる人々の中でも、
神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」
《Ⅱコリ215
 
 焼き鳥屋さん、
お団子屋さん、
パン屋さんの前を通る時、
”いい香り”に誘われてお腹がグーっと鳴ったりします。
 
おいしいものを食べるとき、
においがしなかったら、
きっとおいしさ半分でしょう。
 
 聖書に、
わたしたちは「イエスさま香りの芳香剤」だとあります。
 
いやなにおいを消して、
良い香りをふりまく存在です。
 
教室にポット置かれると、
まわりの人たちが気持ちよくなる。
 
不快な思いが消え、
リラックスできる。
 
そんな芳香剤になれたらステキですね。
 
 誰でもイエスさまと一緒ならばなれます。
 
なぜなら自分が香るのではなく、
心の中にいてくださるイエスさまが香ってくださるからです。
 
今日はイエスさまのどんな香りにしましょうか?
 
優しさ・慰め・励まし・安心・勇気・思いやり・・・。
 
 りべ
 

「交わり」
 
 「しかし、
人が主に向くなら、
そのおおいは取り除かれるのです。
私たちはみな、
顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、
主と同じ姿に変えられて行きます。
これはまさに、
御霊なる主の働きによるのです」
Ⅱコリント31618
 
「朱に交われば赤くなる」
という言葉があるように、
誰と交わるかによって私たちの人生は変ります。
 
暗い人と一緒にいるとなんとなく心が暗くなりますし、
優しい人と付き合うと、
こちらも優しい気持ちになります。
 
聖書は、
私たちが神様に心を向けるなら、
心のおおいが取り除かれ、
栄光から栄光へと主と同じ姿に
変えられていくと教えています。
 
神様と共に歩んでいても、
交わりがなければ、
それはなんて寂しい旅路でしょう。
 
神様はあなたと親しい交わりを
持ちたいと願っています。
 
あなたを見つめています。
 
あなたが神様のほうに心を向けるなら、
そこにはこちらを向いている神様の顔があります。
 
今日も神様と交わりの時間を持ちましょう。
 
【タマ】
 

「主イエスをよみがえらせた方が、
私たちをもイエスとともによみがえらせ」
Ⅱコリント414
 
 この「よみがえらせ」
という言葉には「目を覚まさせる」という意味があります。
 
私たちも朝学校に行くとき、
起きるのがつらいことがあります。
 
でも目覚ましや家族の声で起きることができます。
 
それと同じように、
私たちが死を迎えた時に起こしてくださる方がおられます。
 
自分で起きるのではありません。起こしてくださるのです。
 
永遠を前にして目覚まし時計を幾つも並べ、
激しい音で起きようとするのもいいですが、
起こしてくれる方がいる幸い聖書は教えています。
 
この起こしてくださる方を、
今日も知りながら過ごしましょう。
 
ヨップ
 

【今日の私の願いは何?】
 
「私たちの念願とするところは、
主に喜ばれることです。」
Ⅱコリント5:9
 
これほどまでにイエスさまを
大切にできるなんてパウロは特別な人なのかなぁ?
 
いえいえ、
パウロは私たちと同じ人なのです。
 
パウロは本当に大切なものを大切にしたのです。
 
子どもの頃、
とっても欲しかったおもちゃはもういりません。
 
あんなに欲しくて欲しくてたまらなかった携帯も
友だちがスマホを持っているのを見ると、
もうつまらない物に見えてしまいます。
 
仲良しのお友だちもいつの間にか仲良しではなく、
違う友だちといつもいっしょにいるようになります。
 
私たちの心に現れては去っていくものを追い求めるのではなく、
ずっっっっっっっといっしょにいて下さる本当の友だち、
イエスさまを大切にする…それがパウロの願いだったのです。
 
そして、私の願いでありますように。
 
子基 頼喜
 

「心をみられる神さま」
 
「キリストの愛が私たちを
取り囲んでいるからです。」
(第二コリント514節)


 テレビでこんな話を聞きました。

 ある御主人が、
奥さんの代わりにお皿を洗いました。

 するとその奥さんは
感激して泣き始めたそうです。

 そんな事で喜ぶの!?
ご主人がお皿を洗うぐらい大したことないじゃん!
…と私はテレビを見ながら思っていました。

 けれどその直後、奥さんは
「彼が一緒にいてくれるだけで幸せなのに、
その彼が私の為に何かをしようと
してくれたことが嬉しくて泣いた。」
と言ったのです。

 愛は人を動かします。

 そのご主人は、
大切な妻の為に自分が
出来る事をしたいと思ってお皿を洗いました。

 パウロは自分の行動の動機を
こう語っています。

 「キリストの愛が私を
駆り立てているから(新共同訳)」だと。

 十字架に架かるほどイエス様が
私を愛しておられる。

 そのイエス様の為に
どんなことでもやりたいんだ。と。

 私たちの行動は?大切なのは、
この愛の心です。

 この奥さんのように、
神さまもあなたが
いてくれるだけでも嬉しいのに、
神さまの為に何かをしようとする心を
涙を流すほど喜ばれます。

 たとえそれが、
どんなに些細で、
失敗に終わったとしても…

(
アップル)
 

「2つの悲しみ」
 
 「神のみこころに添った悲しみは、
悔いのない、
救いに至る悔い改めを生じさせますが、
世の悲しみは死をもたらします。」
(Ⅱコリント710
 
 悲しい、
という感情が、
私達の中からなくなる事はありません。
 
 いつも喜んでいられないから
自分はダメだと思う必要はなく、
勇気を出してSOSを
発しなければいけない事もあります。
 
 悲しくてたまらない、
という日が続く中でこそ、
静かに寄り添って下さる
神様がいて下さいます。
 
 少し時間がたって、
「この悲しみは自分にとって
良い事だったな」
と感謝できるようになったら、
「みこころに添っ」て悲しむ、
という神様の教科書の1ページがめくられ、
新しい学科に取り組み始めます。
 
 ちょっと苦しい時もあるけど、
笑って進級し続けられるよう、
助けて頂きましょう。
 
ゆらまり
 

他己推薦(たこすいせん)
 
「誇る者は、
主を誇りなさい。
自分で自分を推薦する人でなく、
主に推薦される人こそ、
受け入れられる人です。」
(Ⅱコリント101718
 
 自己推薦に対して、
他己推薦。
 
 自己紹介に対して、
他己紹介。
 
 他の人が推薦してくれたり、
紹介してくれたり、
ということを表現しているのでしょう。
 
 そもそも「他己」は「自己」のもじりでしょうが、
専門分野(例えば、心理学)では、
この表現もアリのようです。
 
 あえて言えば、
他の人の推薦や紹介に、
己(おのれ、つまり自分)の思っていることや
言いたいことが重なるとき「他己」が
意味としても成り立つ、
ということでしょうか。
 
 さて、
だれにもまして、
私を推薦してほしいのは、
イエス様です。
 
 イエス様の働きのために、
その栄光を表すために、
イエス様ご自身が、
誰を推薦しようか、
と見まわされたときに、
私を、
と願います。
 
*私を、
 と願う私を、
 主よ、どうか、
 みこころにかなうように造り変えてください。
 
〝メガネいちば〟

●証しにならない?
 
「わたしの恵みは、
あなたに十分である。
というのは、
わたしの力は、
弱さのうちに完全に現れるからである。」 
 《Ⅱコリント129
 
「証し」というと
私たちはすぐに、
立派なこと、
強いこと、
成功したこと、
うまく行ったことだけを
証しとし、
弱さ、
乏しさ、
欠け、
失敗、
躓き、
それらを“証しにならない”
と切り捨ててしまうかもしれません。

 しかし、「証し」というのは、
神様が、
神様の素晴らしさが
現されることです。

 であるとしたら、
弱さの中に生きている、
その歩みの11つが、
そのこと自体、
大きな証しであると
言えるのではないでしょうか。


失敗もあれば、
問題・課題もあり、
大きな悩みを
抱えることもある。

 しかしそんな中で、
主がどんな風に
私たちを助け、
守り、
導いてくださるか。

 今日も、
そんな生きた証しを
経験する一日でありますように。


『ジョン』

しろくまが好き
 
 
 
 雪国に引っ越してきて、
10年目になります。

 最初の年、降り続く雪と、
雪かきとで、
疲れ果ててしまいました。

 新聞もTVも見る気にならず、
暇さえあれば、横になり、
笑うことも忘れ、自分は役に立たない、
居てもしかたがない存在のように感じて、
涙が出てきました。

 そうです。

 うつです。


 
私は、この状態を冬眠と呼び、
頑張るのは雪が降るまで、
雪が降ったら、無理に頑張らず、
じっとして、春を待つことにしました

 冬眠を知らず、
氷の上を元気に走り回る
しろくまのようになりたいと思いました。

 自分の弱さを思い知りました。

 そして、
自分の力を過信せず、
一日一日、主により頼んで
力を頂くことを学びました。

 年々、冬眠が短くなり、感謝しています。
 
 
「ですから、私は、
キリストのために、
弱さ、侮辱、苦痛、迫害、
困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、
私は強いからです。」
コリントⅡ12:10

(シロクマ)