神さまの約束
「なぜなら、
福音のうちには神の義が啓示されていて、
その義は、
信仰に始まり信仰に進ませるからです。」
(ローマ1:17)
神の義とは何でしょうか?
とても難しい言葉に聞こえます。
旧約聖書の中で神の義というのは、
神さまがご自分の約束(契約)に忠実で、
約束を果たすために愛をもって行動することを言います。
神さまはイスラエルとの契約を果たすために、
ご自分の御子イエスさまを私たちに与えてくださいました。
神さまの約束はどのようにして始まるのでしょうか。
それは私たちが神さまの約束を信じて、
信頼し続けるときです。
ですから、
神の義は信仰に始まり、
信仰に進ませるのです。
今日も神さまの約束を信じましょう。
(たか)
約束を信じる
「神には約束されたことを
成就する力があることを堅く信じました。」
(ローマ4:21)
アブラハムには子どもがいませんでした。
その上、
アブラハムも妻のサラも高齢でした。
しかし、
神さまは「子どもを与える」と約束したのです。
普通に考えるとありえないことでした。
しかしアブラハムは、
神さまは約束を果たす力を持っていると信頼したのです。
私たちも、
自分の能力の限界を感じて、
あきらめることもたくさんあると思います。
聖書は、
神さまご自身と神さまの約束を求めるよう、
私たちを励ましています。
神さまは必ず、
約束したことを成就してくださるからです。
聖書は神さまの約束で満ちています。
その一つ一つを私たちは堅く信じることができるのです。
(たか)
まあるくなろう!
「・・・それは、
患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出すと
知っているからです。」
(ローマ5:3~4)
ひいらぎと言えば、
クリスマスを思い浮かべると思います。
ひいらぎの葉っぱは
先がとがっていて、
他の葉っぱとは違い、
手に取る時に
気をつけないと痛いですよね。
でも知っていますか?
ひいらぎの葉っぱは、
時が経つと少しずつ角が取れてきて、
まあるくなるんです。
風雨にさらされ、
厳しい夏の暑さや
冬の寒さに耐えて、
長い時間をかけて
角が取れ丸くなるんです。
私たちのまわりでは、
いろんなことが起こります。
時には嫌になることや、
逃げだしたくなることも、
苦しくなることもあるでしょう。
でも、
そこで祈りながら忍耐して
進んで行くことができれば、
人間がまあるくなり、
品性が磨かれていくと思います。
忍耐も、
神さまに祈りながら進んで行けば、
案外、
大丈夫なものですよ!
「ぴよ」
希望はどこから?
「この希望は失望に終わることがありません。」
(ローマ5:5)
私たちの人生は思い通りにいかないことの方が多いです。
うれしい出来事よりも、
大変なことも多いし、
期待通りになるより、
期待外れの方が多いのです。
悪いことが続くと、
次もうまくいかないかも・・・
とネガティブな考え方になってしまいます。
聖書はいつも私たちに、
希望を持つように励ましています。
どんなに大変なことがあっても、
思い通りにならなくても、
神さまが自分にとって一番良いことを
してくださると信じることができるからです。
それが、信仰です。
ですから私たちの希望は信仰が土台になっています。
その希望は決して裏切られません。
(たか)
信仰はどこから?
「神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
(ローマ5:5)
皆さんには信頼のおける、
親友と呼べるような友だちはいますか?
いつからその友だちを信頼していますか?
私たちはなぜ人を信用するのでしょうか?
それは、
その人が良い人だ、
自分のことを考えてくれている人だと思うからです。
言い換えると、
その人の愛が分かると、
その人を信頼するのです。
私たちの信仰もまったく同じです。
私たちは、
イエスさまが私のために十字架上でいのちを捨てて、
ご自身の愛を示してくれたので、
イエスさまを信頼することができるのです。
信仰は愛から生まれるのです。
愛のない信仰は存在しません。
(たか)
『罪の結果』
「その当時、
今ではあなたがたが
恥じているそのようなものから、
何か良い実を得たでしょうか。」
ローマ6:21
テレビのニュースや新聞には、
犯罪者が逮捕されたとか、
裁判が行われたという
ニュースが毎日のように
報道されます。
罪には必ず相応の
刑罰が伴います。
私たちが神様の前に犯した罪は、
イエス様の十字架によって
赦していただくことができるとは、
本当に感謝なことです。
そこで、
ちょっと考えてみてください。
自分の犯した罪は自分にとって
何か良いものをもたらしたことが
あっただろうか?と。
イエス様を信じることなく、
「罪の奴隷」となって、
自分のやりたいように
罪を重ねていったら、
自分はどうなっていると思いますか?
聖書には罪の行き着く所は
死だと書かれています。
罪は何一つ、
良い結果をもたらすことがありません。
厳粛なことですね。
(かわこ)
無駄なことは何もない
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」
(ローマ8:28)
私たちの生活の中には、
無駄だったと思うことがあります。
努力しても報われなかった、
希望していたこととは違う
残念な結果に終わることがたくさんあります。
そんな時は、
どんな人でもがっかりして、
落ち込みます。
聖書は落胆しやすい私たちに、
神さまは
「すべてのことを働かせて益に変えて下さる方」
だと教えています。
どんなに報われなかったとしても、
期待通りいかなくても、
私たちの人生には無駄なことは一つもありません。
必ずそこには神さまの目から見た価値があるのです。
結果が大事なのではなく、
そこに至るプロセスを神さまは見ておられます。
(たか)
なぜ、勉強するの?
なぜ、学校に行かなくてはいけないの?
なぜ、勉強しなくてはいけないの?
学校や勉強が楽しければ、
いいけど、そうじゃないと辛いですね。
私は、中学時代、学校は行ったけれど、
勉強はさぼり、教会は行ったけれど、
説教は聞いていなかった。
絵(まんが)ばかり描いて、
3年間もったいないことを
してしまいました。
高校生になって、勉強の楽しさを知り、
信仰を回復して聖書が楽しくなりました。
でも、中学からの積み重ねが
必要な教科は、取り戻せませんでした。
将来、何をしたいのか、何になりたいのか、
分からない間は、とりあえず勉強がんばろう。
夢を見つけたら、神様のみこころかどうか、
確かめよう。
違っていたら、みこころを選び取ろう。
私は、伝道者になって、
CSの教材に絵が役立っています。
神様の御手の中では、全て無駄になりません。
頑張れ!
「神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを
働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」
ローマ人への手紙8:28
(シロクマ)
ねがいはありがとう
「私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
(ローマ 8:32)
もしも かみさまに
たったひとつだけ ねがうとしたら
あれにしようか これもほしいな
いつも かなえてほしい ことばかりで なにかちがうね
ねがうことは かみさま ありがとう
かみさまに きいてほしい ほんとのきもち
きみがいて わたしがいて かみさまがいてくださる
ねがいは ありがとう かみさま ありがとう
(さんびか「ねがいはありがとう」)
* ひとり子さえもおしまないで与えてくださって、
神さま、ありがとうございます
〝メガネいちば〟
「負けない戦い」
「絶対に負けられない
戦いがそこにはある!」
某TV局の、
日本代表戦中継のキャッチフレーズだ。
それくらい真剣に戦う選手達を、
応援する人も真剣に!
というメッセージかな。
みんなは
「絶対に負けない戦いがある」
ことを知ってる?
それはイエス様の戦いで、
要は勝ち続けたければ
イエス様の側に立ち続けよう!ってことが、
勝利の秘訣。
でも時にはコレが難しい。
敵の作戦は、
私達の目をイエス様から離させること、
イエス様のことを考えさせないようにすること。
それに気をつけてさえいれば、
たとえ試合に負けても、
失敗しても、
自分の思い通りに行かなくても、
私達は私達を愛してくださるイエス様によって、
圧倒的な勝利者になれるんだ。
(ローマ8:37)
びい
②キャンプ
「人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。」
キャンプの最終日、
「イエス様を信じてお祈りしたい人は?」と尋ねられた。
もちろん、
救われたいけれど、
隣りにいるのは、
キャンプでお世話になったスタッフのお姉さん。
あこがれのお姉さんをガッカリさせたくないなんて、
変な気をつかって、
教えてもらった通りのお祈りを上手にして、
救われたことにした。
それからの数年間、
重く苦しい心で過ごすことになってしまった。
神さまに、
心に引っかかっていることをそのまま、
自分のことばで祈る時、
私の罪のために十字架にかかって下さった
イエス様による赦しと救いを知ることができます。
(ふ)
分からないこと
「ああ、
神の知恵と知識との富は、
何と底知れず深いことでしょう。」
(ローマ11:33)
聖書は、
分からないことがたくさんあります。
神さまのことも分からないことがたくさんあります。
私は東日本大震災の
ボランティア・グループに参加しましたが、
「なぜ、
こんな辛いことが起きたのだろうか」
と心の底から思いました。
神様がおられるのに、
自然災害や恐ろしい出来事はどうして起こるのでしょうか。
私たちは正確に答えることができません。
「分かりません」と言うしかないのです。
それでも聖書に書かれていることは神様が愛と恵みに満ち、
あわれみ深く、正しい方であるということです。
それが聖書の答えなのです。
(たか)
もてなしの心
普通、「おもてなし」というと、
最高の料理を出し、
会話が途切れないように気を配り、
客を退屈させないように
することだと思いがちです。
でも、
ある本に「もてなしとは、
相手を縛らないで客に友情を、
そして、
相手をひとりぼっちにしないで
客に自由を提供することだ」と書いていました。
無意識のうちにこちらのスタイルを強要してしまうのを避け、
相手が自分なりのスタイルを
見出す場を提供することが「もてなし」だというのです。
教会に誰かが訪れた時、真理の強調で相手を縛らないで、
その人と出会えたこと自体に
心から感謝して交わることができればいいなあと祈っています。
『隣人を愛する』
(ロマ13:9)
という戒めの要を実行していく者になりたいです。
(グッドビレッジ)