「いのちを与えるお方」
「この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった」
ヨハネ1:4
聖書は、
私達に本当の「いのち」を
与えることのできる唯一のお方を紹介しています。
それがイエス・キリストです。
イエス様を救い主として信じ受け入れるなら、
イエス様は私たちの罪を赦し、
私達に「霊のいのち」
(永遠のいのち)を与えてくださいます。
だから、
それまでは神様が
良くわからなかった人が、
イエス様を信じると
神様のことがわかるように
変えられることがあるでしょう。
それは霊が新しくされ、
新しいいのちに生かされているからです。
イエス様を信じたけれど何も変ってない?
そんなことはありません。
変化は私達の内側に起こってるんです!
あなたは、
イエス様によって新しい霊的いのちに
生かされていることを自覚していますか?
【タマ】
家庭が壊れてしまった子たちを
保護されてるご夫婦がこのように言っています。
ここに来る子たちは
みな大きな問題を抱えた子供たちで、
深く傷ついています。
そんな子供たちに最初にご夫妻がさせることは、
わがままを言わせることだそうです。
その子が、
わがままが言えるようになってくると大丈夫だそうです。
なぜなら、
わがままが言えるというのは、
心が開かれ、
信頼が築かれてきている証拠だからです。
わがままなどというのは、
信頼関係がなければ決して言えません。
わがままを言っても
関係が壊れないほどの強い信頼関係があってこそ、
成り立つ関係、それは真の親子の関係です。
ヨハネ1:12
「神の子どもとされる特権をお与えになった。」
ヨップ
「やるべきこと」
『宴会の世話役は
ぶどう酒になったその水を味わってみた。
それがどこから来たのか、知らなかった。』
(ヨハネ2:9)
結婚式の宴の途中で接待の酒がなくなりそう。
こんな失礼で恥ずかしいことはない。
助けを求められたイエス様は、
しもべ達に、
水がめ一杯に水を汲んでおくように言われ、
その通りにしたところ、
それが最良のぶどう酒に変わっていたので、
世話役が驚いたんだ。
時々私達は自分のしている事の意味がわからない。
でもイエス様は、
私たちが忠実にやるべき事を果たす時に、
素晴らしいことをしてくださる。
お祈りも大事だけれど、
ただ願い事がかなうだけの人生を求めてもダメだ。
私たちがやるべき事は、
私たちがしっかりやること。
今日イエス様が、
自分に願っておられる、
やるべき事は何かな。
びい
礼拝って何のために?
ある教会に耳が遠くなってきたおばあさんがいました。
声やスピーカーの音を大きくしたり、
補聴器を用意したり、
まわりの人たちは、
その人が礼拝に出やすいように努力しました。
でもうまくいきません。
ついに礼拝説教が聞けないようになりました。
しかし、
そのおばあさんが変わらずに
礼拝に出ている姿に不思議なものを感じました。
一人の学生さんが尋ねました。
「礼拝説教が聞けなくて残念ですね」
そうするとおばあさんは答えたそうです。
「私はお説教を聞きにきているのではなく、
神様を礼拝しに来ているのです。」
その答えに礼拝とは何かを教えられました。
「霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネ4:24
(ヨップ)
「礼拝を通しての交わり」
「しかし、
真の礼拝者たちが霊とまことによって
父を礼拝する時が来ます。」
ヨハネ4:23
良い交わりの中には「聞く」こと
「話す」こと以外に「プレゼント」があります。
あなたはプレゼントをもらったことがあるでしょう。
また贈ったこともあるでしょう。
愛する人に何かを与えたい、
奉げたいと思うことは人間が持つ自然な感情です。
礼拝は、
愛する神様へのプレゼント(奉げもの)です。
あなたは礼拝を奉げていますか。
心から最高の礼拝を捧げていますか。
土曜日の夜、
必要もないのに遅くまで起き
礼拝に遅れていくことがないでしょうか。
賛美の態度はどうでしょうか。
お祈りの態度はどうでしょうか。
愛する神様に、
あなたの心からの礼拝を捧げましょう。
【タマ】
私たちのパンと魚
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を2匹持っています。」
ヨハネ6章9節
ありふれた、
けれども大切な食物を、
少年は握りしめていました。
イエスさまの弟子のアンデレはそれを見つけて、
イエスさまのもとに連れて行きます。
握った手を開いた時、
奇跡が始まります。
イエスさまはその食物を祝福し、
それは増えに増えて何と5千人以上のお腹を満たします。
自分が持っている大切なもの、
そして自分自身を、
あまりにも小さい、
と、
握りしめて、
隠してしまいやすい私たちです。
手を開いて、
神さまのものになる時、
それは祝福され、
私たちは大きな祝福の輪の中に入れられるのです。
(T)
何で教会に行くんだろう?
「イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。
わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、
決して渇くことがありません。」
ヨハネ6:35
両親ともにクリスチャンの家に生まれた私は当たり前のように、
毎週教会に行っていた。
その大切さを頭で理解していた。
遊びまわって日曜の朝方に帰ってきたり、
午後の伝道会が終わったとたん遊びに出かけたりしながらも、
それでも集会には出ていた。
けれど、
仕事の日曜出勤が重なって何週間も礼拝に出なかった時期があった。
その間に、
知らないうちに私の心はすさんで飢え渇いてしまった。
久しぶりに礼拝に行ったとき、
水を得た魚のように、
心が生き返るようだった。
「礼拝に出るんは、
うちにとってこんなに大切やったんか…」
改めて実感した。
教会に来て、
教会のみんな、
神の家族と一緒に心の食事をすることが、
力の源、
いのちの源。
実感しながら、
喜んで教会にいけますように。
「おばあちゃん」
心細い日に
「イエスは、
彼らが彼を追放したことを聞き、
彼を見つけ出して言われた。
『あなたは人の子を信じますか』」
ヨハネ9章35節
本当の友達や、
そしてイエスさまとの出会いというのは、
嬉しい時より、
悲しい時の方が多いのかもしれません。
なぜかは分からないのですが、
生きていくのは悲しいことが多いこと、
そしてイエスさまご自身が誰より傷つき、
悲しまれたお方であるのと関係があるようです。
イエスさまは、
ここで、
ご自身を知ったために人から拒まれた人を、
探し出されます。
そして、
「人の子を信じますか」と、
引き寄せてくださいます。
私たちがどうしようもなく「一人でいる」心細い日に、
誰よりも傷つき、
そしてそこから復活されたご自身に結び付けようと、
見つけ出してくださるお方がいるのです。
(T)
宇宙飛行士の条件
中国の宇宙飛行士の条件の一つが、
体臭がないことと聞きました。
狭い空間で生活するため、
体臭がきつい人は不合格とか。
宇宙に有人ロケットを飛ばす前に、
においを消す装置とか開発できなかったのかなあ。
以前ご奉仕していた教会で、
ひとりのホームレスの青年が
祈祷会に求道しはじめました。
ところが、彼、
とても足のにおいがきつかったのです。
姿を見ずとも来られたことが
分かるほどでした。
私は、イエス様のように、
足を洗う洗面器を用意して
あげようかどうしようかと悩みました。
ところが、悩んでいるうちに
2~3回来会されて、
それっきり来られなくなりました。
周りの人をいやすような
イエス様の香りをはなつ、
そんな信仰者になりたいですね。
それは、マリヤのように、
愛のゆえに、イエス様に惜しげもなく
全てをささげた者だけが、放つ香りです。
「マリヤは、非常に高価な、
純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、
彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。」
ヨハネの福音書12:3
(シロクマ)
「香川真司」
「わたしが道であり、
真理であり、
いのちなのです。」
(ヨハネ14:6)
サッカー日本代表の香川真司について、
解説者がこう言っていました。
「ゴールへの道筋を示すカーナビが、
彼の頭の中にはある。」
一瞬一瞬状況が変わるピッチ上で、
どこにいる誰にパスを出せばいいか、
その後自分はどう動けばいいかが、
わかっているというのです。
同じ世代の代表メンバーは皆彼を尊敬し、
一緒にプレーできる事を誇りに思っています。
やっぱりすごい…香川真司。
さて、
私達の信頼するイエス様は、
疲れる事なくケガもせず、
どう進めば私達が本当に
幸せになれるかを知った上で、
パスを出し続けて下さいます。
「こんなのあり?!」
と思える方向からボールが飛んでくる時にも、
疑わないで応じるのが私達の役目です。
ゆらまり
【イエスさまこそ本当の方!】
「わたしが道であり、
真理であり、
いのちなのです。
わたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
ヨハネの福音書14:6
2000年前の十字架と私と何の関係があるの?
私は十字架を見ていません。
もし、
イエスさまが十字架で死んだことが本当だったとしても、
それが私の罪のためだという証拠がどこにあるのでしょう。
今日のみことばでイエスさまはこうおっしゃっています。
「わたしが…真理」と。
「いつどんなときにも変わることのない本当の方」、
それがイエスさまです。
イエスさまは私たちの罪のために十字架にかかり、
死んで、
3日目によみがえられました。
2000年前の十字架は私のためなのです。
もしそうでなかったら、
「真理」のイエスさまがそうおっしゃらなかったのです。
今日も、
十字架を見上げ、
感謝して1日をスタートしましょう。
子基 頼喜
すべてのことが分かる
しかし、助け主、すなわち、
父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。
ヨハネ14:26
ようやく携帯電話会社同士の絵文字が統一されて
メールの中で時々見かける
=
のマークとおさらばです。
若い人たちは、
キャリアメールな んか
しないので関係ないかな
でも、やっぱり時々でも使うメールに
=
というマークがあるのって
読みにくいですね
訳が分からないのって、つらいし。
聖霊が心に来てくれるから
神さまの御思いって何だろうと
祈り求めるとき、
=
のマークは無くなります。
聖書を読んで
ちんぷんかんぷんだったら
祈ってみようよ
聖霊さま、助けてくださいって。
「なた」
「削除」
『わたしの父は農夫です。』
学生時代、
テレビのない部屋に住んだ。
すると一日の時間が増えた。
おかげで色んなものを読んだり、
書いたり、聞いたり、出かけたり、
より価値のある時間を過ごせた気がする。
実家に帰っても
あまりテレビを視なくなっていた。
今ならゲームとかかな。
たくさんのやらなきゃいけない事を
抱える時がある。
でも時には要らないものを
削ることが大切だと覚えた。
農夫が収穫のために
不要な枝葉を切り落とすように、
神さまは私たちの人生を
より実り豊かなものとする目的で、
不要なものを切り取りなさる時がある。
惜しく見えたり、
痛く感じたりすることもあるだろう。
でも全部をしっておられる神さまを
信頼してお任せしよう。
より良い収穫が待っている。
びい
甘いトマト
ベランダで、
鉢植えのトマトを育てています。
昨年のトマトは、実をつけたものの、
味はまるでレモンでした。
そこで、今年は、
甘いトマトを実らせるために、
水は極力やらず枯れかかる
くらいの方が良いと聞き、
試してみました。
なるほど、葉は小さく背も低く、
それでも、
ピンポン玉くらいの小粒の実をつけました。
食べてみると、
去年とは比べものにならないくらい、
甘いトマトでした。
私たちも、
過酷な環境でこそ甘くなるように、
主とともに、試練や課題、
苦難の中を通った後、
素晴らしい信仰者に成長するのです。
神様が、甘くしようと、
訓練してくださっているのかもしれません。
試練に負けず、
甘いトマトを目指そう。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、
父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、
もっと多く実を結ぶために、
刈り込みをなさいます。」
ヨハネの福音書15:2
(シロクマ)
互いに愛し合う
「わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです。」
(ヨハネ15:12)
愛し合うという言葉は心地良いひびきを持っています。
みんなが愛し合うことができれば、
争いもなくなり平和になるのにと思う人は多いでしょう。
でも実際は大人も子供もどの世界を見ても争いや憎しみが満ちていて、
とても悲しいです。
人が本当に愛し合うためには、
イエスさまの愛を知らないとできません。
イエスさまはご自分のいのちを捨てて私を愛してくださいました。
もし私たちがだれかに愛を届けたいと思ったら、
相手の人のために犠牲を払わなければ届かないのです。
小さな犠牲でも、
心から相手の人のために行うなら、
大きな愛となって届くのです。
(友)
命のリレー
「人がその友のためにいのちを捨てるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
《ヨハネ15:13》
「アハメド君のいのちのリレー」という実話を元にした絵本があります。
パレスチナ人の12歳のアハメド君は、
イスラエル兵の銃撃で脳死になりました。
お父さんは臓器提供を決断します。
アハメド君の心臓はイスラエル人の少女に移植されることになりました。
それを聞いたお父さんは、
「海で溺れていたら、人種や宗教などは関係なく人を助けるでしょう。それと同じです。」
と言いました。
手術は成功し元気になった少女は、
パレスチナ人の役に立ちたいと勉強し医師になりました。
後にアハメド君のお父さんが少女を訪ねた時、
居間にはアハメド君の写真が飾られていました。
イエスさまの無償の愛、
十字架の愛を思います。
わたしたちのために命を捨ててくださった
イエスさまを心から感謝して、
今日もイエスさまの足跡を、
イエスさまと一緒に歩んでいきたいですね。
りべ
『真実なことば』
「わたしはあなたがたを
友と呼びました。
なぜなら
父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。
・・・わたしは真実を言います。」
ヨハネ15:15、16:7
私たちは会話をすることで
お互いの考えを知ることができます。
その時、
自分もいい加減なことを言い、
相手も本心じゃないな・・・
と思うような会話をしたり、
その場を取り繕う
出まかせを言ったり、
相手を傷つけると
わかっていながら、
キツイことばを
言ってしまうことが
あるかもしれません。
イエス様はいつでも
「真実」を語っておられました
それは本当のことを
ズバズバと言うという
意味だけではなく、
相手のことを考え、
自分が伝えるべきことを
愛の心で伝える姿勢のように思えます。
友だちとして、
自分が言ってあげられる励まし、
感謝、忠告。
真実なことばを
伝える人になりたいですね。
(かわこ)
勇敢でありなさい
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、
あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。
ヨハネ16:33
うちの娘のオキニのTV番組は
ボンビーなガールが
いかにして困難を切り抜けていくかというもの
難しいところで
へこたれないで
知恵を使って
ハッピーエンドに持ち込む
そんな姿に励まされているようです
一緒に観ようよと
時々観させられるんですけど
たしかに
あのバイタリティには励まされます
へこたれないで
最後に見せる笑顔って
とっても魅力的
毎日大変だよね
だけど
その大変な毎日を
生きている自分って
わりと魅力的なんじゃないかな
イエス・キ リストの魅力って
そういうところもあると思う
そして
イエス・キリストから力を分けてもらって
切り抜けていく自分って
魅力的だよ
「なた」
「失敗した時に②」(「失敗した時に ①」は、ヤコブ3:2参照)
ペテロは十字架の前に、
大きな失敗をしてしまいました。
何度思い返しても赤面するような失敗です。
そして、ふっきれない思いで故郷ガリラヤに帰ってきました。
そして前の仕事であった漁を始めたのです。
私たちは失敗を背負ったままだと重苦しさをぬぐえません。
しかし、そんな時でさえイエス様に目を向けることは力になります。
その夜、
魚は一匹も獲れませんでしたが、
そんなペテロの岸近くにイエス様は近づいて、
声を掛けてくださいました。
あなたの人生の不漁の時に、
イエス様が近づいてくださいます。
「夜が明けそめたとき、
イエスは岸べに立たれた。」
ヨハネ21:4
(ヨップ)