大きな可能性
 
「いったいこの子は何になるのでしょう。
主の御手が彼とともにあったからである。」
ルカ166
 
 将来の夢はパイロット。
 
中学のころいだいた夢でした。
 
その夢はかなわず、
今は牧師。
 
飛行機の操縦かんを握ることはなかったけれども、
人生の一番大切なものを伝える案内係りとして
イエスさまのお手伝いができているので、
不思議だなと思っています。
 
みんなそれぞれ自分の将来の夢を持っているでしょう。
 
夢の実現のためにお祈りしていますが、
その夢ごとイエスさまの手にまかせてみたらどうでしょう。
 
想像もできないほど大きなドラマが待っているかもしれません。
 
イエスさまの手にある人生には大きな可能性があるのです。
 
5年後、
10年後のみんなの姿が楽しみです。
 
(友)
 

●日が暮れたら
 
「日が暮れると、
いろいろな病気で弱っている者を
かかえた人たちがみな、
その病人をみもとに連れて来た。
イエスは、
ひとりひとりに手を置いて、
いやされた。」 
 <<ルカ4:40>>
 
 勉強や部活で忙しくしていて、
やっと自分の時間がとれたとき、
何をします?
 
 メールしたりテレビを見たり、
音楽を聞くのも良いですね。
 
 一日中忙しく働いていた人たち、
日が暮れてやっと自分の時間がとれたとき、
弱っている人をいやしてもらおうと
イエスのもとに連れて行きました。
 
 うれしくなることばかりならイイけど、
ガッカリしたり、ムッとしたり、
つまんなくなったり、イライラしたり、
ただとにかく疲れたり。
 
 イエスさま、
こんな風にキツイこの心、
いやしてくださいって祈りながら
イエスさまのみもとに、
自分の心を連れて行ってみましょう。
 
「なた」

●そんなの関係ねぇ
 
「群衆がイエスに押し迫るようにして
神のことばを聞いたとき、
イエスはゲネサレ湖の岸べに
立っておられたが、
……漁師たちは、
その舟から降りて網を洗っていた。」
 <<ルカ5:1-2>>
 
 押し迫るようにイエスさまの話を聞く人たち。
 
 そんなの関係ねぇとばかりに
自分の仕事に励む漁師のペテロと仲間たち。
 
 教会に行くと、
熱心に聖書の話に
耳を傾けている人たちを見ながら、
自分にはそんなの関係ねぇとばかりに、
漁師が網を洗うように
学生なんだからと礼拝説教中に
宿題に励んでしまうひと、
割と見かけます。
 
 ペテロにしても、
奥さんのお母さんの病気が
イエスさまの奇蹟によって
いやされた現場を見ても、
だからといって信じる気にもなれず、
自分の世界をしっかり保ち続けました。
 
 そんなペテロに、
何かがクリックする瞬間が訪れました。
 
 そんなペテロをイエスさまが
ご覧になっていたからです。
 
 自分を見てくれている方が、
ある時、心の何かをクリックしてくれます。
 
 そんなの関係ねぇと
思っていても、です。
 
「なた」

 
●でもおことばどおり
「『でもおことばどおり、
網をおろしてみましょう。』
そして、

そのとおりにすると、
たくさんの魚がはいり、
網は破れそうになった。」
《ルカ55-6

 
 神様の思いと私たちの思いが
異なることがあります。

 そんな時あなたは
どうするでしょうか?

 ペテロやアンデレ、
ヤコブ、
ヨハネはプロの漁師さんでした。

 どこにどんな魚がいるか、
どうしたらよく捕れるか。

 誰に教えられるまでもなく、
知り尽くしていた人たちです。

 しかし、
その夜は全く魚が
取れませんでした。

 舟から話しをするために、
舟を出してくれないかと
イエス様に頼まれ、
話しが終わると
今度はイエス様が
「深みに漕ぎ出して、
網をおろして魚をとりなさい。」
と言われる。

 それは、
自分たちの思いや
常識とは全く異なっていました。

 しかし、
そのとおりにした時、
思いもしない大漁を
手にしたのです。

 鍵は、
「でもおことばどおり」
という言葉にありました。

 私たちの歩みにも、
「でもおことばどおり」
…それが必要なのではないでしょうか。


『ジョン』
 

おまえなんか、いらん!
 
取り合いジャンケンのあと、
最後に残った僕に放たれたのがこの一言です。
 
このあと、
僕はもう一緒に野球の輪に加わることもなく、
いつもボ~と遠くから眺めるだけになりました。
 
ところがある日、
楽しそうに野球をしている輪の中の一人が、
急に僕のところに走り寄って来て、
驚きのひと言を言い放ったのです。
 
「よっしゃん!いっしょにやろう!」
「え~!?
どうして僕の名前を呼んでくれるんですか?
打てば三振、
守ればトンネルのこの僕の名を。
誰にも必要とされて来なかった僕なんかで
ホントにいいの?」
 
引っ張られるようにして輪の中に入った時、
なんとも照れくさかったのを今でも覚えています。
 
「わたしについて来なさい。」すると、
レビは何もかも捨て、
立ち上がってイエスに従った。
(ルカ5:27、28)
 
レビは最高にうれしかったのです!
 
イエス様に名前を呼んでもらえて。
 
(グッドビレッジ)
 

●何もかも?
 
「レビは、何もかも捨て、
立ち上がってイエスに従った。
そこでレビは、
自分の家でイエスのために
大ぶるまいをした……。」
 <<ルカ5:29-30>>
 
 これ、
作文でこんなことを書いたら、
減点ですね。

 何もかも捨てたのに、
どうして
⑴自分の家があるのか、
⑵大ぶるまい、
つまり大宴会が開けるほど
私財をまだ持っているのか。

 何もかも捨てて
イエスさまに従ったなら、
自分の家も大宴会が
開けるようなお金も無いはずでは?


 何もかも捨てる、
とくると、
自分の所有物を
全て処分して出家する、
みたいなイメージがあります。

 けれども、
ここで大事なのは、
まずとにかくイエスさまを
第一にすることです。


 大宴会では、
レビの仕事仲間は
イエスさまと楽しいひとときを
過ごしたようです。

 イエスさまを第一にして、
学校の友だちや
部活の仲間と楽しいひとときを
過ごすのが聖書の示す道です。

 イエスさまを第一にして、
友だちと楽しんじゃいましょう。


「なた」

『おことばをください』
 
「ただ、おことばを
いただかせてください。
そうすれば、
私のしもべは
必ずいやされます。」
ルカ7:7

 ローマの百人隊長は
イエス様に「おことば」
を求めました。

 それだけイエス様の
みことばの力に
信頼していたということです。

 私たちが読んでいる聖書は、
「神様のおことば」です。

 これからの長い人生で、
自分を励ましてくれる、
自分を慰めてくれる、
自分を叱ってくれる、
自分を導いてくれる、
そういうみことばが
この聖書の中には
詰まっています。

 今は自分とは関係ないな、
と思えたり、
難しくて頭の上
通り過ぎていって
しまうように思えても、
毎日読み続けると、
みことばが私の心に
トンと降りてきて、
みことばが
自分とつながる、
そういう経験を
する時が必ずあります。

 「おことばをください」
という気持ちで、
とにかく聖書を読みましょう。

(かわこ)

 12年間の孤独の終わり
 
「ときに、
十二年の間長血を
わずらった女がいた。
だれにも直して
もらえなかったこの女は、
イエスのうしろに近寄って、
イエスの着物のふさにさわった。
すると、
たちどころに出血が止まった。」
 <<ルカ8:43-44>>
 
 数年ほど前、
新型ウィルスが話題になっていた頃、
国際線の飛行機に乗った友人が
話してくれました。

 「機内はさ、
独特の緊張感があってね。
だって咳(せき)でもしようものなら、
一斉にみんなその人をにらむんだよ。

 だから10時間近く、
クラッシク音楽の
コンサートみたいでさ、
咳なんか絶対にできないんだよ。」


 
 当時の公衆衛生や
医療技術上の限界を
踏まえつつ与えられた律法から、
ある病気にかかった人を見ると、
みんな、
サーッとひいていました。

 現代でも病気によっては
そんなことはありますし、
あと病気ではなくても、
何気ない一言とか行動で、
みんながサーッと
ひいてしまうことってあります。

 この女性は12年間、
病気のためにみんな
サーッと引いてしまい、
友だちと楽しい時を
過ごすこともできませんでした。

 小学校の6年間、
中学校の3年間、
そして高校の3年間の
合計12年間、
ひとりぼっちというの、
考えられます? 

 イエスさまはそこに
解決を与えられました。

 みんなをサーッと
引かせてしまうものが
自分の中にあるかな、
と思ったとき、
イエスさまに祈ってみましょう。

 
「なた」
 

「神さまの励まし」
 
「恐れないで、ただ信じなさい。」
(ルカ850節)


 どうしようもなく不安になる時があります。

 嫌われるかも…失敗するかも…
悪いことが起こるかも…
この不安は私たちの心を暗くします。

 そしてそんな時、
何て弱くて情けないんだと自分が嫌になります。

 しかし、
この不安は私たちの身を守る為に必要な、
神さまが与えて下さった
大切な防衛システムです。

 神様は、私たちが不安に想い、
恐怖を感じ、
絶望を感じる時があるのをよく知っておられます。

 ヤイロもそうでした。

 大切な娘の死を目の当たりにした時の不安、
絶望、
恐れ…イエス様は
そんなヤイロに言葉をかけました。

 「恐れないで、ただ信じなさい。」
恐れているヤイロをしっかりと受け止めて、
「わたしが一緒にいるから大丈夫」と。

 恐れを抱く時、
目の前の事に向き合う勇気を失います。

 しかし、私たちには死をも乗り越えた、
復活のイエス様が一緒です。

 十字架の苦しみを越え、
永遠の命を与えることのできる
偉大な神さまが一緒なら大丈夫。

 自分の気持ちをありのまま神さまにお話しし、
助けを求めて一日一日を過ごしていきましょう。

(アップル)
 

●全校生徒は何人? 
  何クラス?
 
「それは、
男だけでおよそ五千人もいたからである。
しかしイエスは、
弟子たちに言われた。
『人々を、五十人ぐらいずつ
組にしてすわらせなさい。』
弟子たちは、
そのようにして、
全部をすわらせた。」 
<<
ルカ9:14-15>>
 
 男だけで五千人です。

 女性や子どもを入れると
一万人は越えていたはずです。


 自分の中学や高校の
全校生徒は何人いますか? 

 50人ぐらいずつというのは、
だいたい1クラス分ですが、
1万人もいると
何クラスぐらいになるでしょう。

 それだけの数の
人たちのクラス分けを、
お腹が空いてきたときに
やりぬいた弟子たちってスゴイです。

 しかも、
5つのパンと2匹の魚しか無いのに。


 その後にすばらしい奇蹟が起きました。

 イエスさまが
すばらしいのは当然ですが、
弟子たちの根性も大したものです。

 この根性を
「信仰」といいます。

 信じて何かをやり抜いて、
イエスさまってすごいんだなぁと
体験してみませんか。


「なた」

●自分自身を失いたくない
 
「人は、
たとい全世界を手に入れても、
自分自身を失い、
損じたら、
何の得がありましょう。」
 <<ルカ9:25>>
 
 何の競技でもいいです。

 芸術系のコンクールでもいいです。

 全国大会の決勝を
明日に控えた自分を想像してみてください。

 ここまでがんばって来たんだから、
もう優勝を狙うしかないと
思うのが当然でしょう。


 プロのアメフトのある
監督がいました。

 翌日にスーパーボウルという
決勝戦を控えていました。

 あの監督は良いんだが
スーパーボウルで勝てるほどの
監督ではないとさんざん言われ
クビになったりしながらも
がんばってきて、
ついにスーパーボウル
出場となりました。

 後に彼は語っていましたが、
その前日、
このみことばが心に響いてくる
ばかりであったそうです。

 やるからにはトップを
目指したい。

 けれども、
自分自身を見失い、
自分自身をだめにしてまで
ではないのだ、と。

 救い主を信じ、
正直にまっすぐ生きる部分が
こわれてしまったら、
たといチャンピォンになっても
何なのだ、と。


 ちなみに、
彼の監督するチームは
その翌日のスーパーボウルで勝ちました。


「なた」

●ティーンの今だから
 
「ちょうどこのとき、
イエスは、聖霊によって
喜びにあふれて言われた。
『天地の主であられる父よ。
あなたをほめたたえます。
これらのことを、
賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現してくださいました。
そうです、父よ。
これがみこころにかなった
ことでした。』」
 <<ルカ10:21>>
 
 おとなってズルイ、
と思いませんか。

 あんな大人たちのようになんか
なりたくない、
と思ったことありませんか。


 ティーンになると、
誰しもが持つ
こういう感覚というかセンス。

 実は主イエスも
大事にしておられました。
 
 メンツやプライドばかり肥大し、
これが信仰者として
大事なんだと
自分勝手な
イメージを人に押しつけ、
けれども真理とも
主イエスとそのみことばとにも
まっすぐ向き合うことの無い
大人たちと主イエスは
正面衝突していきました。


 この箇所の幼子は、
現代のいわゆる
ティーンも含まれます。

 ティーンならではの
とぎ澄まされたセンスだからこそ
感じ取れる神の真理があります。

 そして、
今のセンスで感じ取る
神の真理は一生モノの価値があります。


「なた」
 

力を抜いて…
 
「マルタ、マルタ。
あなたは、いろいろなことを心配して、
気を使っています。」
≪ルカの福音書10:41
 
 スポーツや楽器が週1回の練習では上達しないのは、
週1回だと、
どうしても次の動きを頭で考えてしまうからです。
 
頭で考えてから動くので遅いですし、
体に力が入って固くなってしまいます。
 
しかし、
練習量を増やせば考えなくても体が自然に動きますから、
力が抜けて柔軟な動きができるようになり、
どんどん上達していきます。
 
イエスさまに注意されたマルタは、
もてなしの準備を頑張り過ぎていて、
心に力が入っていました。
 
心に力が入っていると、
神様と上手に交わることができません。
 
聖書を読む時、
お祈りする時は、
まず心を落ち着けてリラックスするようにしましょう。
 
(イルマーレ)
 

●いろいろと必要なこと、
どうしても必要なこと
 
「主は答えて言われた。
『マルタ、マルタ。あなたは、
いろいろなことを心配して、
気を使っています。
しかし、どうしても
必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを
選んだのです。』」
 <<ルカ10:42-43>>
 
 欲しいものや気になること、
いっぱいあります。


 主イエスと直接話をしていた
マルタでさえそうなんですから、
現代の日本で生きるわたしたち、
気になることばっかり
次々と出てきて大変です。


 必要なこと、
いっぱいあります。


 で、どうしても必要なこと、
いくつある? それは何? 
どうしてそれが
どうしても必要なことなの?


 ときどき、
でもいいですから、
十代のうちに考え始めておいて
良いことだと思います。
 
「なた」

『隠れている罪』
 
「隠されているもので、
知られずに済む
ものはありません。」
ルカ12:2


 この前、
自転車に乗っていて、

 不思議なことに、
服は破れていないのに、
やたらヒジが痛いので、
そでをめくると、
ヒジから血
出ていました。

 隠れている罪って
こんな感じ?と思います。
 心の中に罪があっても、
顔はニコニコ!(^^)!
笑っていられるかもしれません。

 でも心の中に
隠れている罪は、
私たちを苦しめる原因。

 そのままにしていたら大変です。

 私の手の傷は
薬を塗って、
数日で完治しました。

 心の中には薬は塗れません。

 心の傷、
罪はイエス様のところに行って、
赦していただきましょう。

なるべく早く。

(かわこ)

●ドーデモイイことなんだけど
 
「五羽の雀は
二アサリオンで売っているでしょう。
そんな雀の一羽でも、
神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、
あなたがたの頭の毛さえも、
みな数えられています。
恐れることはありません。
あなたがたは、
たくさんの雀よりもすぐれた者です。」
 <<ルカ12:6-7>>
 
 学生時代にイジメられた経験のある、
その後弁護士として
活躍した人がイジメについて
色々と書いているものを
読んだことがあります。

 その中で、
イジメる側はたいてい
くだらない理由から
イジメを始めていて、
自分が根本的に
ダメだからイジメられている
なんてことはまず無いので、
深く気にし過ぎて
自分で自分の価値を
否定しないようにと書いてあり、
なるほどなぁと思いました。

 人って、
ホントにくだらない理由で
イジメ始めます。

 けれどもイジメられている側に
してみれば大変で、
本当につらいことです。


 ドーデモイイことをとりあげて
イジメの材料にする人間たち。

 ドーデモイイことさえ
大切にご覧になって
愛してくれる神さま。


「なた」
 

【いのちを延ばすのは小さなこと?】
 
「あなたがたのうちのだれが、
心配したからといって、
自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、
なぜほかのことまで心配するのですか。」
ルカの福音書12:25、26
 
 「不老不死」は、
年を取らないで、死なないこと。
 
人間は昔からこの「不老不死」を
手に入れるために一生懸命でした。
 
不老不死を手にいれるために、
自分の生涯をささげた人は長い歴史の中にたくさんいます。
 
でも、
今日のみことばでは、
人間がどんなに努力しても
手に入れることのできないことを
「こんな小さなこと」と言っているのです。
 
「神さまの力ってどんなに大きいのだろう!」って思わない?
 
この神さまが、
「心配しないで、任せなさい。」っておっしゃっておられます。
 
今日、
あなたの心配は何かな?神さまにお任せしましょう。
 
きっと大丈夫だから!
 
子基 頼喜
 

●待たせてはいけない
 
「腰に帯を締め、
あかりをともしていなさい。」
 <<ルカ12:35>>
 
 学生時代、
家着と外着の話をしていたら、
モトカレが待ち合わせに
遅刻したうえ、
ボサボサ頭のまま、
チョーみっともない家着で
待ち合わせ場所に立っていた
自分に向かって走ってきたとき、
「お願いッ 
このまま通り過ぎて!」
とマジで思ったと笑いながら
話してくれた人がいます。

 
めちゃ恥ずかしいカッコで
登場してこっちが恥ずかしく
なったのもいやだったけど、
デートに寝坊したということが
許せんかったと。


 寝坊されて待たされるのは
誰でもいやです。

 
もちろん、
神さまにとってもいやです。


「なた」

●バチがあたる? 
あたらない?
 
「イエスは彼らに答えて言われた。
『そのガリラヤ人たちが
そのような災難を受けたから、
ほかのどのガリラヤ人よりも
罪深い人たちだったとでも
思うのですか。
そうではない。』」
 <<ルカ13:3-4>>
 
 とあるニュースが
報じていましたが、
日本人の8割ほどは、
悪いことをしたら
バチがあたると
思っているそうです。

 大変な自然災害に遭った
日本人を見て、
日本への神罰が
下ったのだと言う外国人も
いたことを考えると、
そしてこの聖書の
部分を見ても、
そんな風に考える人って、
いつでもどこにでも
いるのかなと思ったりもします。


 こんな考えの裏には、
ちゃんとやってる自分に
バチは当たるまい、
という発想です。

 主イエスはこれを
問題にされました。


 自分としては、
自分はちゃんとやってると思う、
というのは、
実はあまり重要ではありません。

 大切なのは、
悔い改めて神を信じ、
主イエスとともに
生きるかどうかです。


「なた」

●こんな日、
こんなタイミングなんですけど
 
「すると、
それを見た会堂管理者は、
イエスが安息日に
いやされたのを憤って、
群衆に言った。
『働いてよい日は六日です。
その間に来て直してもらうがよい。
安息日には、いけないのです。』 
しかし、
主は彼に答えて言われた。
「偽善者たち。
……この女は
アブラハムの娘なのです。
それを十八年もの間
サタンが縛っていたのです。
安息日だからといって
この束縛を解いてやっては
いけないのですか。」 
《ルカ13:14-16
 
 イエスさまから
助けてもらうのもよいが、
だめな日もあるのだと
会堂管理者は怒っていました。

 
こういう日には助けを受けるな、と。


 こういう思いって、
どこからともなく忍び込んできます。


 ちゃんと祈ってきてないんだから、
今さら祈ったところでだめだろう。

 
こんなことで主イエスの助けを
願うなんてムシが良すぎるだろう。

 
こんなクリスチャンでしかないのに
神から助けてもらおうだなんて……。


 宗教的常識。

 
そういうジョーシキによって、
自分で自分をしばってしまうこと、
人間はよくやります。


 こんな自分で、
こういうタイミングなんだけど、
それでも祈ろうかと手を組むとき、
このルカ13章を
チラッと思い出してみてください。


「なた」

●イースト、キリスト
 
「神の国を何に比べましょう。
パン種のようなものです。
女がパン種を取って、
三サトンの粉に混ぜたところ、
全体がふくれました。」 
<<
ルカ13:20-21>>
 
 パンを作ったことありますか?


 パン屋ではないのですが、
学生時代、
バイトでキッチンに出入りしていて、
時々パン生地をこねていました。

 初めてパンの加工を
した時のことは忘れられません。

 ほんの少しのイースト菌が入ると、
それまで小さかった生地が
ドンドンと大きくなるのです。

 そのふくれ具合に驚きました。

 これはもう活字では表現不可能です。


 そのイーストが入ると、
もとの生地は大きくふくらみますし、
おいしく食べられますしで
良いことづくめです。

 キリストが自分の中に入るとき、
それまで貧弱で味わいもない
自分自身が豊かにふくらみますし、
まわりの人たちをも
楽しませる存在となります。


 キリストとともに生きるって、
きゅうくつな感じが
しなくもありません。
 
 でも、実は、
自分自身が豊かに
ふくらんでいくことでもあるんだ、
ということも覚えていてください。


「なた」
 

 
今年は歯痛で苦しんだ年。
 
たった一本の歯を抜いただけで、
あちこちが痛くなって、
もう全部抜いてしまいたい!
と思うほどでした。
 
 一本の歯が抜けたことにより他の歯に負担がかかり、
そこが炎症していたのです。
 
 たった一人くらいが抜けても
・・そう思うときがあるかも知れません。
 
でもその一人が大切なのです。
 
その人はあなたにとって大切な人ではないかもしれません。
 
またあなたが自分自身を大切に思えない時もあるでしょう。
 
でもその一人が大切なのです。
 
イエス様は今日もその一人を追い求めていてくださいます。
 
「いなくなった一匹を見つけるまで
捜し歩かないでしょうか。」
ルカ154
 
(ヨップ)
 

だまし取られた側のこと
 
「…だれからでも、
私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
(ルカ 198
 
樹齢何百年の大木が、
神社の境内から不法に切り倒されて売られているのではないか、
と追跡しているテレビ番組を見ました。
 
内緒で薬剤を注入され、
枯れてしまったら切って売らざるをえなくなる
…そうした状況を作っては、
心ある人たちを窮地に追い込んでいく、
その巧妙な手口がもしも実際にあるとしたら、
なんとも憤りと情けなさを覚えます。
 
よく知っているザアカイの物語に紹介されている、
彼のひとこと
「私がだまし取った物は」は、
想像以上に巧妙で、
被った側の心をぐちゃぐちゃにするほどのひどい、
毒々しい所業だったことを表すのかもしれません。
 
その彼がイエス様と出会って悔い改めたのですから、
イエス様の救いは完全です。
 
この悔い改めが、
今度はだまし取られた側の心を回復します。
 
*   だまし取られる痛みを味わいたくありません。
 
イエス様、どうぞ守ってください。
 
〝メガネいちば〟
 
 

だれが一番偉い?
 
 また、彼らの間には、
この中でだれが一番
偉いだろうかという論議も起こった。
ルカ22:24
 
 私の住んでいる県
ヘンなところが多いと
笑われるのが多いんですが
その一つに、バス停や電車の駅で
整列乗車しないこと
 
 言われてみれば確かにその通り
 だから出張で他の地方に行くと
そうか、ここでは並ばなきゃと
あせることが時々
 
 だから私の県はよく笑われるのですが
ここに住んでいる私たちなんか
どういう順番であっても
ちゃんと乗りたいものに乗れるのだから
良いじゃないかとのんきです。
 
 誰が先で誰が後
誰が偉くて誰がそうでもない
弟子たちも気になってしまっていたようです。
 
 でも、天国行きの列車に乗せてもらうのは確か
だったら、恵みの列 車に乗せてもらうことを
単純に主イエスに感謝している
 
 そういうのんびりさも大切かな
 
「なた」
 

わたしのための祈り
 
「しかし、
わたしは、
あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。」
 ルカ2232
 
 私たちはいろんな人の愛や思いやり、
祈りに支えられていると思いますが、
そのことにどんなに気づかないことか、
何よりイエスさまが私のために祈ってくださる、
そのことをどれくらい忘れていることか。
 
 そして、
イエスさまにしか祈れない、
わたしのための祈りがあるのです。
 
 イエスさまは、
私たちがどこでこわれやすいか、
何に弱いかをだれよりもご存知です。
 
それでイエスさまはご自身とつながる
「信仰がなくならないように」祈られます。
 
 私のあぶなさをご存知で祈ってくださるイエスさま。
 
そのご愛にただ感謝します。
 
T
 

立ち直ったら
 
「だからあなたは、
立ち直ったら、
兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 ルカ2232
 
 ペテロは懸命に従ってきたイエスさまを
「そんな人は知らない」と3回も言います。
 
イエスさまはそのペテロのために祈られました。
 
 「立ち直ったら」もうあんなことのないよう、
きびしくしなさい、
ではなく「力づけてやりなさい」と続けて言われます。
 
 挫折を経験したあとで、
よみがえられたイエスさまに出会い、
ペテロは立ち直ります。
 
 私たちの周りを見ても、
見た目はともかく、
もう自分はだめだと心の中で思っている人、
気力をなくした人がたくさんいます。
 
「イエスさまがいる」
「こんなだけど、わたしもいる」
どんなことでも、
何かしら、
本当に力づけることができたら、
と願います。
 
T
 

 
祈ってるね
 
 
「わたしは、
あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。」
(ルカ2232
 
 
 先日、
ある集会で40代の男性が証をしていました。
 
その方は小さい時から教会に行っていて、
教会学校でたくさんの友達ができたそうです。
 
小学生から中学生になり、
何人かの友達は教会から去っていったそうです。
 
そして高校生になりやがて社会人となるにつれて、
一人来なくなり、
二人来なくなり…。
 
気がついたら昔の教会学校から残っているのは自分一人になっていたと。
 
友達が教会から去っていくのはすごくさみしいです。
 
そのさみしさを祈りに代えてみませんか。
 
イエスさまは私のためだけでなく、
今は来なくなった友達のためにもとりなしてくださっています。
 
信じて祈り続けましょう。
 
(友)
 
 

願い
 
「イエスさま。
あなたの御国の位にお着きになるときには、
私を思い出してください。」
 ルカ2342
 
 イエスさまとともに十字架に
掛けられた二人のうちの一人、
イエスさまに罪がないこと、
自分の罪を悔い改めた人のことばです。
 
 イエスさまのきよさと自分の罪深さをよく知り、
わたしはそこにはいけないと思ったでしょう。
 
それでも願わずにいられませんでした。
 
心の片隅にでも思い出してほしい、
という願いです。
 
 この人はこの後、
地上で忘れ去られてしまったと思いますが、
イエスさまは、
この人に、
私と共にパラダイスにいる、
と言われました。
 
T
 

「選抜総選挙」
 
 「主が振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは、
『きょう、鶏が鳴くまでに、
あなたは、三度わたしを知らないと言う。』
と言われた主のおことばを思い出した。」
(ルカ2261,62
 
 イエス様につき従う生活をしながら、
弟子達が内心とても大好きで
喜んでし続けた事がありました。
 
 この中で誰が一番偉いか、
という、
弟子内選抜総選挙。
 
 もちろん自分の一票は必ず自分に入れます。
 
 でもイエス様が十字架にかけられた事を通して、
実は皆が、
最下位どころかはるか圏外の存在に
過ぎないと思い知らされます。
 
 そしてようやく、
そんな自分を見つめて下さる、
イエス様のまなざしに気づくのです。
 
 色々な形の競争を味わいますが、
イエス様のまなざし
というスポットライトは、
下位になった時の方が、
暖かく私達を照らします。
 
ゆらまり
 

・  エル・グレコの
悔悛の聖ペテロ
 
 若い頃、私はよく、
絵画の展覧会に、出かけました。

 ある時、画家エル・グレコの
「悔悛の聖ペテロ」に、
心を奪われました。

 主への裏切りを悔いた
ペテロの姿を描いた絵です。


「これは、自分だ!」
そう思ったのです。


 中学時代の私は、
主を裏切ったペテロと同じでした。

 高校1年生のときに、
悔い改めて信仰を回復しましたが、
いつもこの聖書の箇所を読むたびに、
心が痛みました。
 
今、この年?になると悲しみは癒えて、
感謝になっています。

 こんな裏切り者の私をも
愛してくださったイエス様は、
悲しみの涙を感謝の涙に変えてくださいました。


 「主が振り向いてペテロを見つめられた。
ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでにあなたは、
三度わたしを知らないと言う』と言われた
主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。」
ルカの福音書22:61,62

(シロクマ)
 

「ポンテオ・ピラト」
 
 「ピラトは祭司長たちや群衆に、
『この人には何の罪も見つからない。』と言った。」
(ルカ234
 
 「今日はポンテオ・ピラトさん
という人のお話をします。
 この名前、
どこかで聞いた事がありませんか?」
 
 この質問に、
小学2年生の男の子が
手を挙げて答えてくれました。
 
 「は~い。主の祈り!」
…う~ん、ちょっと惜しかった! 
 
 昔のローマ人の名前など、
そうそう覚えていない私達ですが、
イエス様に罪がないという、
心に芽生えた大切な思いを、
いかす事ができなかった
残念な存在として、
礼拝のたびに使徒信条の中で
口にし続けています。
 
 本当はこうした方がいいのにな
と示されている事を、
先に延ばさないでやってみる勇気を
与えて頂きましょう。
 
ゆらまり
 

「父よ、彼らを赦してください」
(ルカ23:34
 
「赦し」という言葉には、
「見逃す」という意味があります。
 
マンションにチラシを配るのに難しさを覚えますが、
その地域でも「罰金500万円!」と書いてありました。
 
あるマンションに行くと正面に管理人室があり、
その人と目が合ってしまい、
進まざるを得ない状況です。
 
「今度教会でクリスマスコンサートがありますが、
チラシを…」とお願いすると
「見なかったことにしておきます。
誰かが来たらすぐ止めてくださいね。」
と言われ無事配布完了。
 
「見なかったことにしますから・・」
と言われましたが、
確かに見られたのです。
 
神様の赦しと同じだなと思いました。
 
私のすべてを見ておられるのに
十字架によって「見逃し」てくださった主です。
 
(ヨップ)
 

海賊の手
 
 子どもが小さかった頃、
ゴムのように手足が伸びる
あの有名な海賊のアニメを観ました。

 衝撃的で、作者の想像力に驚きました。


 神様の御手もあの海賊の手のようだと思いました。


 歩き始めの幼子は、親の手を嫌がり、
ひとりで好きな方向に歩いて行こうとします。

 でも、転びそうになったり、
危険なところに行こうとすると、
すぐに親の手がしっかり子どもの手を握って連れ戻します。

 どんなに遠くに行こうとしても、
すぐそばに手があるのです。

 はねのけても、はねのけても、
神様の御手が私を捕まえてくださるのです。

 だから、私たちは滅びないで、
今、生きているのです。


 でも、できるなら、
ちぎれそうになるまで伸ばしていただかないで、
私たちのほうからしっかり手を握り、
神様と歩調を合わせて、歩きましょう。

 その方が絶対、楽しいはずです。


「『道々お話になっている間も、
聖書を説明してくださった間も、
私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」
ルカの福音書24:32

(シロクマ)