●鳩のように
「そして、
水の中から上がられると、
すぐそのとき、
天が裂けて御霊が鳩のように
自分の上に下られるのを、
ご覧になった。」
  ≪マルコ110

 
聖書で最初に
鳩が出てくるのは
ノアの箱舟の記事。

 3度目に鳩は
オリーブの葉っぱをくわえて
帰って来ました。

 鳩は平和の象徴ですが、
聖書に見る鳩は、
新しい時代の幕開けを
象徴しています。

 イエス様が洗礼を
受けられた時、
御霊が鳩のように降りました。

 イエス様の公生涯の始めに、
その働きを
祝福しておられるようです。

 聖霊と鳩はこのように
セットになっているような
ところがありますが、
それは聖霊のご性質を
的確に表していると言えます。

 ♪鳩のように優しく、
愛で満たす、
主の恵み♪(ひむなる79
と歌われていますが、
聖霊が心に与えられる時、
優しさ、
柔らかさが与えられます。

 それは、
神様のみことばに対する柔らかさ、
素直さです。

 そんな心で今日も歩めたら
素晴らしいですね。


『ジョン』
 

⑮ゴーヤ
 
「あなたは、わたしの愛する子、
わたしはあなたを喜ぶ。」
(マルコ1:11
 
 節電のためグリーンカーテンに挑戦しようと、
ゴーヤの苗を植えた。
 
場所は、2階のベランダ、
毎日、日の出からたっぷりと日差しを浴びて、
つるも葉も勢いよく伸びてきた。
 
そして、小さいゴーヤが実っている。
 
どんなに暑くても、
渇きやすいプランターへの水やりは欠かさない。
 
日に何回となく目を向け、
かわいいゴーヤに異常がないか確かめる。
 
私たちは、神さまから、
とても愛されている存在。
 
神さまが「愛する子」、
「喜ぶ」と言われたイエスさまを信じる私たちは、
目に留められ、心に掛けられている。
 
少々出来が悪くても、心配することはない。
 
神さまが喜んでくださっているのだから。
 
(ふ)
 

(中途半端な自分)
 
「イエスは四十日間荒野にいて、
サタンの誘惑を受けられた。」
(マルコ1の13)
 
 みなさんは早く大人になりたいですか。
 
それともずっと子どものままでいられたらと思いますか。
 
どうして人には成長期があるのでしょうか。
 
大人とも子どもともどちらとも言いがたい
中途半端に感じられる今があるのでしょうか。
 
 それは、
人の成長には「経験」という要素が不可欠だからです。
 
体が大きければ、
頭が良ければそれでよいのではなく、
そこに経験が伴って初めて人は成長します。
 
 イエスさまもまた、
初めから大人としてではなく、
幼子として生まれ、
成長期を過ごされました。
 
そしてさまざまな誘惑も経験されました。
 
イエスさまは、私たち人間の「経験」を、
非常に大切なものだと知っておられる方です。
 
(FNS)
 

一日のスタートに
 
 「さて、
イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、
寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。」
 (マルコ1:35
 
 運動を始めるとき、
急に体を動かすとケガをすることがあります。
 
 準備運動が大切であると、
ほんとうにわかりますね。
 
 大リーグで活躍しているイチロー選手も、
試合の前には必ず入念な準備運動をしてから
試合に出るそうです。
 
準備運動をしていることによって、
今でもケガをすることなく、
現役で選手生活を続けていられるのですね。
 
 私たちが安全な生活を送るには、
やはり準備が必要です。
 
 イエス様も、
よく一人でお祈りをしている記事が聖書の中にあります。
 
 一日をスタートする時、
私たちも祈ってスタートすれば、
何か起きたときでも神さまに
守られていることを実感することができるでしょう。
 
 朝起きたときに、
お祈りをして
一日をスタートすることを心がけましょう。
 
「ぴよ」
 

「わたしの心だ。きよくなれ。」
 
人間にとって最も良きことは、
神とともにいることです。
 
神の愛で心が満たされているときは、
感謝と喜びがあふれています。
 
生きることが楽しくなります。
 
テストで失敗しても、
失恋しても立ち直ることができます。
 
ところが、罪があると心が暗くなります。
 
自分でやめようと思っても誘惑に負けてしまうのです。
 
そんな私たちをイエスさまは見離さず
「わたしの心だ。きよくなれ。」と仰ってくださいます。
 
誰も自分で自分をきよくすることは出来ません。
 
唯イエス様だけが、
私たちを罪からきよめることができます。
 
イエスさまは、
私たちにも「わたしの心だ。きよくなれ。」
と力強く命じておられます。
 
力あるイエス様の言葉によって、
私たちもきよめられましょう。
 
NHKさん
 

(ふたつの時)
 
「そのとき、
中風の人が四人の人にかつがれて、
みもとに連れて来られた。」
(マルコ2の3)
 
 時という言葉には二つの意味があるといわれます。
 
一つは一日は24時間というような一定の「機械的な時間」で、
もう一つはこの時を逃したら次はないチャンスという意味の「機会的な時」です。
 
 ここで中風の人の四人の友人は
イエスさまが町に来られた「時」を逃しませんでした。
 
どんな困難があっても、
今という時を逃してはならないという思いが、
四人のその後の行動に表されています。
 
 機械的な時間は、
年齢・性別・国籍を問わず、
一刻一刻、等しく与えらえています。
 
しかし機会的な時は一日に一瞬、
一生に一度のものさえあります。
 
この神さまから与えられた機会を
どう用いるかが大きな違いをもたらすのです。
 
(FNS)
 

「子よ。あなたの罪は赦されました。」
 
『それでもボクはやってない』という映画を見ました。
 
ある青年が、
満員電車の中で痴漢に間違われ、
いくら「僕はやっていない。」
と言っても信じてもらえません。
 
とうとう裁判を受けることになります。
 
親切な弁護士さんが味方になってくれ、
友人たちも協力してくれますが、
結局、有罪となります。
 
真実が認められないとき、
悔しさを感じますね。
 
すべての人は、
死んだ後に神の裁きを受けることが定まっています。
 
すべてご存知の神の裁きに対して、
誰も何の言い訳もできません。
 
しかし、その時、
私たちの弁護者であるイエスさまが、
「子よ。あなたの罪は赦されました。」
と無罪を宣言してくださいます。
 
イエスさまは、
罪を赦す権威をもっておられます。
 
イエスさまの十字架で、
罪が赦されていることを感謝しましょう。
 
NHKさん

「手を伸ばしなさい」
 
皆さんの手は縮こまっていませんか。
 
皆さんの心が縮こまっていませんか。
 
人は寒さの中にいると、
手がかじかんで動かなくなってきます。
 
でも、そういう時に、
あったかいストーブの前に行き、
手のひらをストーブに向けて温めると、
再び手が動くようになります。
 
人の心も同じです。
 
罪の中にいると、
冷たくなって動かなくなってきます。
 
そういう時は、
イエスさまのところへ行って、
イエスさまに心を向けてお祈りをします。
 
イエス様に近づけば近づくほど、
私たちの心はぽかぽかと温められてきます。
 
イエスさまは、
私たちにも「手をのばしなさい」
「もっと自由になりなさい。」と仰っています。
 
イエス様の愛に温められて、
一度しかない人生をのびのびと
希望と喜びをもって生きて行きましょう。
 
NHKさん
 

(何人家族?)
 
「神のみこころを行う人はだれでも、
わたしの兄弟、
姉妹、
また母なのです。」
(マルコ3の35)
 
 みなさんは何人兄弟ですか。
 
一人っ子の人もいれば、
何人も兄弟がいる人もいるでしょう。
 
確かにそれぞれ私たちが生まれ育つ家庭環境、境遇は異なります。
 
 しかしここでイエスさまは、
神のみこころを行う人はだれでも、
わたしの兄弟なのですとおっしゃいました。
 
では神のみこころを行う人とはどんな人でしょうか。
 
それは、
イエスさまを救い主として信じて受け入れる人のことです。
 
 イエスさまにも、
ここで訪ねてきたような実際の家族があり、
兄弟がいました。
 
しかしその兄弟が、
イエスさまを最初に信じる人にはなりませんでした。
 
家族、
兄弟、
親戚だからこそ、
信じられなかったことがあったのです。
 
(FNS)
 

「もったいない」
 
 「ひとりの女が、
純粋で、
非常に高価なナルド油のはいった
石膏のつぼを持って来て、
…イエスの頭に注いだ。
 
 すると、
何人かの者が憤慨して互いに言った。
 『何のために、
香油をこんなにむだにしたのか。』
(マルコ43,4
 
 当時の一年分の収入ほどに高価な香油が、
イエス様の頭に注がれるのを見た時、
何人もの人がこう思いました。
 
 「もったいない!」…もったいないという感覚は、
今を生きる私達が身につけざるを得ないものですが、
この先イエス様は、
ご自分を割り砕き、
注ぎつくす十字架へと向かって下さいました。
 
 私達の為に全てを与え切る事を、
もったいないと思われなかったのです。
 
 そのイエス様の愛をたっぷり注いで頂いて、
今私達は救いの恵みの中に生かされています。
 
ゆらまり

「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 
赤ちゃんの聞く力は、
実はすごいのだそうです。
 
お母さんのお腹の中にいる時から、
いろいろな声や音を聞いています。
 
ですから、お父さんが、
まだお母さんのお腹の中にいる赤ちゃんに話かけると、
喜んだりして反応するのですね。
 
でも、おとなになるにつれ、
あまり人の話を聞かなくなうような気がします。
 
先生が話していても、
友達と勝手におしゃべりしたり、
話を聞こうとしないのです。
 
何故でしょうか。
 
ズバリ高慢になってしまったからですね。
 
聞く耳がありません。
 
イエスさまは
「聞く耳のある者は聞きなさい。」と仰います。
 
すべての祝福は、
イエス様の言葉を聞くことから始まります。
 
イエスさまの言葉を聞くことは、
永遠のいのちの祝福の入口なのです。
 
NHKさん
 

ブルーベリー
 
 ベランダで、
鉢植えのブルーベリーを育てています。

 今年は豊作でした。

 2年前には、「鳥」ならぬ「人」が
収穫を横取りしてしまい、
食べられませんでした。

 それで、
3階のベランダに避難させた昨年は
30倍止まりでした。

 今年は鳥でも人でもなく、
ハナバチが来て、
すずらんに似た小さな花の蜜を吸いに来ました。

 器用に一つ一つ頭を突っ込んで、
夢中で吸っていました。

 こんな高い所まで来てくれてありがとう。

 おかげで100倍どころか
300倍は実をつけました。

 8年目でやっと、
満足のいく収穫を得ました。


結実を得るまで、
時間がかかりますが、
良い地の心でみことばを受け入れれば、
必ず、実を結びます。


「あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために
必要なのは忍耐です。」
ヘブル10:36

「良い地に蒔かれるとは、
みことばを聞いて受け入れ、
三十倍、六十倍、百倍の
実を結ぶ人たちです。」
マルコ4:20

(シロクマ)
 

(種まき)
 
「それが蒔かれると、
生長してどんな野菜よりも大きくなり…」
(マルコ4の32)
 
 今年、
みんなは何かの種まきをしましたか。
 
花の種もあれば、
野菜の種もあり、
一年で実を結ぶ種もあれば、
何年もかけて花を咲かせ、
実を結ばせる種もあります。
 
 ここでイエスさまが神の国の
たとえとして用いた種はからし種、
当時知られていた種の中で
最も小さいとされた種でした。
 
しかしその小さな種が蒔かれると、
生長して信じられないほどに
大きくなる様子を神の国にたとえたのです。
 
 種で最も大切なのは、
種の大小、
かっこうの良し悪しではなく、
その種に宿る生命です。
 
生命の宿る種が蒔かれるとき、
生長して、
実を結びます。
 
私たちの信仰も同じです。
 
イエスさまの生命と結びつくとき、
そこに実が実るのです。
 
(FNS)
 

眠るイエスさま
 
「ところがイエスだけは、
とものほうで、
枕をして眠っておられた。」
 マルコ438
 
 自分がピンチのとき、
周りがあまりにのんびりしていたら、
腹が立つことがあるのではないかと思います。
 
 イエスさまは、
大嵐の中、
眠っておられました。
 
弟子たちは「なんとも思わないのですか」と非難します。
 
でも、
イエスさまは、
嵐も静めることのできるお方なので、
このとき眠っておられたのです。
 
 私たちの小さな毎日も嵐のような時があります。
 
イエスさまが静かに眠っておられるとしたら、
本当は、
とても大きな祝福なのかもしれません。
 
T
 

(いいね!)
 
「彼は、
夜昼となく…
石で自分のからだを傷つけていた。」
(マルコ5の5)
 
 みんなは自分が好きですか。
 
どうやらこの時代は自分がきらいという人が多いようです。
 
外見や能力、
性格など、
欠点の多い自分を考えると、
もっと…だったらと思うのは当然かもしれません。
 
 しかし、
そんな風に自分をどこかで
責めて毎日を過ごすのは、
ちょうどここでレギオンが、
自分の大切な体なのに、
石で傷つける姿と重ならないでしょうか。
 
周囲からだいじょうぶ、
素敵だよと言われても信じられず、
いつも心の中でもっと…と叫び続けるのです。
 
 だから私たちは毎朝、
イエスさまから「いいね!」
と語りかけていただく必要があります。
 
そしてその良い毎日を
イエスさまとともに
過ごす所に幸せがあります。
 
(FNS)
 

日常にある当たり前のしあわせ
 
レギオン
(「6000からなる部隊」との意)
と名乗る汚れた霊が、
たった一人の人物の中に宿っていました。
 
そんな彼が、
イエス様によって悪霊たちを追い出して頂き、
正気に返ったのです。
 
お供をしたいと願うのは当然の感情でした。
 
もし、
それが実現していたら、
その後の伝道に大きな成果をもたらしたかもしれません。
 
けれども、
イエス様はそれをお許しにならず
「あなたの家、
あなたの家族のところに帰り」
なさいと告げられたのです。
(マルコ5:19)
 
どうしてでしょう?
 
イエス様は、
彼に、
家族の中にある当たり前の幸せを
味合わせてあげたかったのではないでしょうか。
 
そして彼の家族もまた、
彼が帰ってきたことによって、
これまで奪われてきた幸せを
取り戻すことが出来たのではないでしょうか。
 
自分の都合優先でないイエス様の温かな愛の心が伝わってきます。
 
(グッドビレッジ)
 

 ●いっしょうけんめい願って
 
 「すると、
会堂管理者のひとりで
ヤイロという者が来て、
イエスを見て、
その足もとにひれ伏し、
いっしょうけんめい願ってこう言った。
『私の小さい娘が死にかけています。
どうか、
おいでくださって、
娘の上に御手を置いてやってください。
娘が直って、
助かるようにしてください。』」 
<<
マルコ5:22-23>>
 
 大事なものを
失いたくないと
必死のヤイロです。

 ヤイロの場合、
12
歳になる娘でした。
 
 みんなは、何が大事?
  
 サッカーシューズを
すごく大事にしていた
サッカー部の友だち。

 小遣いを貯めて、
こっそりバイトなんかもして
やっと買えたカメラを
大事にしていた友だち。

 地区大会で良い成績を出そうと
ベストコンディションに
仕上げていくようにと
自分の体に気を遣っていた
陸上部の友だち。

 そんな友だちも、
テストの前日になると
悪い点はとらないようにと必死に。

 それでいて、
気になるあの人の視線も大事。

 大事なこと、多いです。


 
 そんな大事なことのために、
いっしょうけんめいイエスさまに
願ったことあります? 

ない?


 
 願ってみようよ。


 
「なた」

●救われて、生きる
 
 
 
「娘が直って、
助かるようにしてください。」 
<<
マルコ5:23>>
 
 
 
 英語の授業っぽくてすみませんが、
これはあまりよい訳ではありません。

 基本的には、
「娘が救われて、
生きるようにしてください」
とギリシャ語から訳すべきです。


 
 この願いをうけて、
イエスさまはこの娘を
いやされました。

 しかも、
その娘に変な噂が立ち、
イジメられたり嫌われたり、
みんなから避けられたり
することの無いように、
うまくいやされました。

 ラザロの場合とは違い、
死んだのではなく
昏睡(こんすい)状態なんだと
言われていやされました。

 その娘が普通の女の子として
普通の幸せを楽しんで生きるためにです。


 
 普通に幸せに生きていけるようにと
イエスさまはひとを救われます。


 
 今日も救いの中に入れてくださり、
今日も充実して生きていけるように、
と祈ってみましょう。


 
「なた」
 

『信仰のみ』
 
「お着物にさわることでもできれば、
きっと直る」
(マルコ5:28)
 
IGMのスピリットは、
神様だけをあてにして生きる信仰です。
 
 祈って与えられるという
経験をしたことがありますか?
 
考えてもみれば、
それは常識では測れない奇跡でしょう。
 
祈らなくても何でも思い通りになる人には、
決して味わうことができません。
 
偉大な創造主が小さな私の祈りに
お応えてくださったのですから。
 
与えられたことがどんなに小さなことだとしても、
世では測れない価値があります。
 
この経験が、
あらゆる必要を満たしてくださる
主のみをあてにして生きる基礎となります。
 
『神様だけをあてにして生きる』
 
こんな素敵な人生をおくる
信仰者になろうではありませんか!
 
R
 

「タリタ、クミ」
 
タリタとは「少女よ」という意味で、
クミは「起きなさい。」という意味です。
 
イエスさまは、
「少女よ。起きなさい。」
と死んでしまった娘に命じました。
 
すると、
少女は起き上がったと聖書は記録しています。
 
そのイエスさまの言葉が
あまりに力強く権威にみちていたので、
その時聞いた発音が
そのまま聖書に記録されたのでしょう。
 
アリスの「チャンピオン」
という曲を知っていますか。
 
「立ち上がれ もう一度その足で、
立ち上がれ 命の炎燃やせ」
と年老いたボクサーが
リングに上がって行くときの様子を歌った歌です。
 
私たちは、
失望して前に進めなくなってしまうことがあるかもしれません。
 
「どうしたらよいか分からない。」
そんな時、
イエスさまは権威をもって私たちにも
「タリタ、クミ」と語られます。
 
「小さき者よ。立ち上がれ。わたしがついている。」と。
 
だから、
私たちも立ち上がることができるのです。
 
NHKさん
 

【恐いものは恐い!】
 
「恐れないで、
ただ信じていなさい。」
マルコの福音書5:36
 
 大切な娘が死んだという知らせを聞いて、
会堂管理者ヤイロは真っ逆さまに暗闇に突き落とされたような思いがしたでしょう。
 
「娘が死ぬ」そんな恐ろしいことが現実になってしまったのです。
 
この時、
イエスさまは「恐れることをやめなさい。」とおっしゃいました。
 
はっきり言ってそれは「無理!恐いものは恐い!」ですよね。
 
でも、
イエスさまはこうおっしゃいました。
 
「恐れることを追い出して、わたしを信じることを続けなさい。」ってね。
 
イエスさまは、
私の持っている「恐れ」を解決する力あります。
 
だって、
人がどうしても解決できない「死」をさえ打ち破ってよみがえられたのです。
 
だから、
イエスさまが打ち破れない「恐れ」なんてないのです。
 
信じよう!
 
子基 頼喜
 

(何がほしい?)
 
「王は、
この少女に、
『何でもほしい物を言いなさい。与えよう』と言った。」
(マルコ6の22)
 
 皆さんが今一番ほしい物は何ですか。
 
すぐに答えられる人もいますが、
そう言われると考え込んでしまう人もいると思います。
 
 ここでヘロデ王に
「何でもほしい物を言いなさい」
と言われた少女は「ヨハネの首」と答えました。
 
なぜそんな物を答えたのでしょうか。
 
それはお母さんがそう言ったからです。
 
彼女が最も信頼する母の答えが最善だと思ったのです。
 
 私たちの願い、
求めは、
私たちが何に信頼しているか、
幸せと思っているかにつながっています。
 
自分に今「何がほしい?」
と尋ねてみてください。
 
そのとき、
自分が本当は何を信じているのか、
何を持つことが幸せだと考えているのかが見えてきます。
 
(FNS)
 

「あなたのイエス様は幽霊?」
 
 「しかし、
弟子たちは、
イエスが湖の上を
歩いておられるのを見て、
幽霊だと思い、
叫び声をあげた。」
(マルコ649
 
 直前に五千人の給食の奇蹟を
体験した弟子達でしたが、
ガリラヤ湖に吹きおろす
突風にもまれる船から、
水の上を歩いてこられる
イエス様を見つけた時、
幽霊だと思って
取り乱してしまいました。
 
 幽霊とは、
存在しないもの、
という意味です。
 
 嵐に巻き込まれ命の危険も
感じる緊急事態のさ中、
彼らにとってイエス様は、
いざという時存在しない、
頼りなく影の薄いものでしかなかった、
という事が明らかになったのです。
 
 あなたにとってイエス様が、
2千何年の日本に生きる自分や、
幾つもの問題に対して力のない、
あまりあてにならない方だとしたら、
それはとても残念な事。
 
 確かな知恵と力をもって、
全てを治めて下さるリアルなお方と
生きる世界を教えて頂きましょう。
 
ゆらまり
 

水の上を歩く
 
「しかし、
弟子たちは、
イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、
幽霊だと思い、
叫び声をあげた。」
 マルコ6章49節
 
 海を見ていると、
水面が地上のように広がって、
細かな波が植物のように、
本当に「海原」に見えることがあります。
 
 その海原の上を、
人が歩いたら、
そんな想像をした人もいたかもしれませんが、
幻と笑い話で終わったのではないかと思います。
 
 ところがイエスさまは、
ほんとうに、
水の上を歩かれました。
 
それはイエスさまが大自然を治める創造主であるからなのですが、
弟子たちはただ恐れて叫び声をあげました。
 
 自然や人、
物事に、
人はいろんな思いを巡らします。
 
その中に入り込んでしまうこともあります。
 
イエスさまは、
水の上を歩かれました。
 
幽霊ではありません。
 
自然ばかりでなく、
人の心にも現れ、
静め、
正しく導いてくださるお方です。
 
T
 

「さあ、あなたがただけで、
寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」
 
皆さんは、休みの日は何をしますか。
 
一日家でごろごろしてテレビを観て過ごす。
 
友達とショッピングに行く。
 
休みは、
疲れをいやすためにあります。
 
疲れた体を休め、
疲れた頭を休めます。
 
そして、
疲れた心も休ませなければなりません。
 
もし、
休むことなく活動を続けたら、
バーンアウト燃え尽きてしまいます。
 
休み方が上手な人は、
勉強や仕事もはかどる人です。
 
イエスさまに心の重荷をおろすとき、
心に安息が与えられます。
 
日曜日に、
すべての活動から自分を解き放って、
静かに主イエス様を礼拝するとき、
新しい1週間の活力が心に与えられます。
 
イエス様のところに行くとき、
私たちは本当に休むことができます。
 
NHKさん
 

(洗濯機では洗えない)
 
「外側から人に入ってくる物は
人を汚すことができない。
人から出るもの、
これが、
人を汚すのです。」
(マルコ7の20)
 
 みんなは学校から帰ってきて、
毎日、
汗まみれになった服をどうしていますか。
 
脱ぎ散らかさずに、
速やかに洗濯に回しましょう。
 
 イエスさまの時代のユダヤには、
私たちには信じがたいぐらい決まりがありました。
 
日に何度も手を洗い、
体を洗い、
物を洗って、
洗い清める決まりがありました。
 
 しかしどんなに彼らが繰り返し洗っても洗えない物がありました。
 
それが人の内側、
心でした。
 
外側をきれいにすればするほど、
この汚れは目立ちました。
 
 心をきれいにできるのはイエスさまだけです。
 
だから私たちは、
いつもイエスさまのもとに帰って、
心を洗っていただきましょう。
 
(FNS)
 

「エパタ」
「エパタ」とは「開け」という意味です。
 
「エパタ」と言われた人は、
耳が聞こえず、口のきけない人でした。
 
イエスさまは、
何に対して「開け」と言われたのでしょうか。
 
それは、
彼の耳に対してです。
 
何かで耳がふさがれていたのですね。
 
人との良いコミュニケーションを持つためには、
まず、耳が開かれる必要があります。
 
人の話を聞くことが出来なければ、
ちゃんと話すことは不可能です。
 
相手にお構いなしに、
べらべらと自分のことを話しても、
心が通い合うことはありません。
 
私たちの耳が開かれて、
聖書を通してイエスさまの言葉を聞き、
また、他の人の話を聞くとき、
私達も相手の心に届く言葉を話すことが出来るのですね。
 
どうか、
心の耳が開かれますように。
 
NHKさん
 

せずにはおれん!
 
「イエスは、
このことをだれにも言ってはならない、
と命じられたが、
彼らは口止めされればされるほど、
かえって言いふらした。」
マルコ7:36
 
 小学校高学年の頃、
私は聖会のたびに前に出ては祈り、
涙しながら戻ってきていた。
 
毎回のように、
友達を教会に誘えない自分が嫌で泣いていた。
 
「はずかしい!恐い!でも誘わなアカン…伝えなアカン…」
 何年も経ったある時、神様は仰った。「『せなアカン』ではないんやで。
 
そう思ってるうちはせんでええ。
 
『せずにはおれん。』と思えるくらい、
今あんたをどんだけ愛してるか知ってほしいんや。」
 
 私は牧師になった。
 
でもいまだに時々「伝えなアカン」が先にたつ。
 
そんな時は、
今日も同じように語りかけてくださる神様の声に耳を傾ける。
 
私たちは今日も、
イエス様を知らない人のほうが多いだろう場所で生きている。
 
「伝えずにはおれん。」と思えるほど、
神様の大きな大きな愛を感じさせてください。
 
「おばあちゃん」
 

「主食プラスおかず」
 
 「また、
魚が少しばかりあったので、
そのために感謝をささげてから、
これも配るように言われた。」
(マルコ87
 
 五千人の給食と四千人の給食。
 
 どちらも同じような奇蹟に見えますが、
五千人と数えられたのは主にユダヤ人、
他方四千人のグループの
多くを占めたのは外国人でした。
 
 ユダヤ人中心の考えを
持つ弟子達の心の中に、
対応する際の温度差が
あった事が伺えます。
 
 でもイエス様は
2つのグループを差別せず、
「非常時だからとりあえず
パンだけ食べてお帰りなさい」
ともおっしゃらず、
魚というおかずもついた
食事を提供して下さいました。
 
 そして弟子達に、
新しい不足が生じても、
イエス様に信頼し続ければよい事を、
繰り返し教えられたのです。
 
 豊かな与え主であられるイエス様は、
私達の必要にも、
プラスアルファーの恵みで答え、
喜び楽しませて下さいます。
 
ゆらまり
 

(神さまの受信機)
 
「目がありながら見えないのですか。
耳がありながら聞こえないのですか。」
(マルコ8の18)
 
 今日、
私たちの回りには、
目に見えないさまざまな電波が行き交っています。
 
しかし私たちの五感ではそれを感じ取ることはできません。
 
何らかの影響を受ける人はいても、
内容まで正確に受信できる体を持つ人はいません。
 
 それぞれの電波にはそれぞれの受信機が必要です。
 
受信機があれば、
だれでも情報を受け取ることができます。
 
小さな子どもでもスイッチ一つでテレビを見れます。
 
 ここでイエスさまは、
心閉ざして真理を悟らない状態を
嘆いておられます。
 
神さまの言葉を受け取るのに
必要な受信機とは何でしょうか。
 
それはイエスさまを信じることです。
 
心を開いて信頼すると、
聖書の真意がわかってきます。
 
(FNS)
 

「自分を捨て、
自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい。」
 
ゲッセマネでイエスさまは
「出来ることなら十字架に掛からなくても済むように」
と父なる神に願いました。
 
しかし、
「わたしの願いではなく、
みこころのとおりにしてください。」
と父なる神に、
委ねて、従う道を選ばれました。
 
私たちがイエスさまについて行くとき、
自分の楽しみを犠牲にしなければならなかったり、
自分の願いとは違った道を行くように導かれることがあります。
 
その時、自分の願いではなく、
イエスさまの御心の道を選びたいですね。
 
それが、弟子の道です。
 
イエス様に従って行く道は、
狭い小道ですが、
他に代えがたい喜びと、
平安があります。
 
この道を一緒に歩んで行きましょう。
 
NHKさん

「その子をわたしのところに連れて来なさい。」
 
ある男の子が、
人前でもどこでも、
騒いで転げまわるので、
お父さんはほとほと困っていました。
 
それで、
イエスさまのお弟子さんたちに治してくれるようにお願いしました。
 
お弟子さんたちは、
何とかその子を治してあげようとやってみましたが出来ませんでした。
 
私たちも、
いろいろな問題にぶち当たって、
自分で何とかしてみようとします。
 
人に頼むことがあるかもしれません。
 
しかし、
どうにもならず落ち込んでしまうかもしれません。
 
本当の解決は、
イエスさまのところに持って行くことです。
 
イエスさまのところに持って行くなら、
イエス様が解決へと導いてくださいます。
 
あなたの悩みは何ですか。
 
イエスさまのところに持って行きましょう。
 
NHKさん
 

(消したい記憶)
 
「いつまであなたがたと
いっしょにいなければならないのでしょう。」
(マルコ9の19)
 
 これは、
口がきけなくする霊につかれた人を、
どうすることもできなかった弟子たちに対して、
イエスさまが発せられた言葉です。
 
 弟子たちにとっては痛い経験だったかもしれませんが、
このことによってイエスさまから祈りの必要を教えられます。
 
そしてその後、
イエスさまが天に帰られたとき、
彼らは祈る集団になりました。
 
 私たちの歩みにも、
どこかで痛い、
恥ずかしい、
失敗したと感じる経験が
あるかもしれません。
 
でもそこでイエスさまから教えられたことは、
その後きっと大切な宝になります。
 
成功の体験は
瞬時的な効果をもたらすかもしれませんが、
失敗の経験は
持続的な静かな力をもたらすものです。
 
(FNS)
 

(小さい時から)
 
「私はそのようなことをみな、
小さい時から守っております。」
(マルコ10の20)
 
 皆さんには小さい時から守っていることってありますか。
 
それはどのようにして始められましたか。
 
おそらく身近な親や大人たちから教わったこと、
決められたことが多いのではないでしょうか。
 
 ここでこの返事をした人は、
小さい時から聖書の教えを守っていますと答えました。
 
おそらく両親や先生から教わったことを
きちんと守る良い子だったのでしょう。
 
 しかし小さい時から守っているということには
一つ大きな弱点があります。
 
それは「なぜそうするのか」
という動機が弱いことです。
 
私たちの信仰が成長するのは、
この「なぜ」という問いに真剣に悩んだ末に、
心からの自分の答えを見出したときです。
 
(FNS)
 

「どんなことでも、神にはできるのです。」
 
信仰って何でしょうか。
 
難しい現実を見て「だめだ。とても無理だ。」
とあきらめることは簡単です。
 
「あの人は救われる訳がない。」とか
「あの人は、変わる筈がない。」とか、
自分の目に見えるところで結論を出してしまいます。
 
しかし、
イエスさまは
「どんなことでも、神にはできるのです。」
と仰いました。
 
私たちの信じている方は、
全能の神です。
 
神にとって、
不可能なことは一つもありません。
 
私たちが、
イエスさまの言葉通りに、
信じ続けて行くことが大切だと思います。
 
私達は、お祈りの中で、
神を信じ続けて行きます。
 
そうすると、
神様が不思議なことをなさってくださいます。
 
信仰とは、
「どんなことでも、神にはできる」
と信じることだと思います。
 
NHKさん

「主がお入用なのです。」
 
イエスさまがエルサレムに入城されるのに、
お用いになられたのはロバ、
しかも荷物をのせるロバの子でした。
 
力も強くない、
早く走ることも出来ない、
人を乗せたこともない、
何の経験もない、
小さなロバの子でした。
 
しかし、
「主がお入用」だったのです。
 
イエスさまの謙遜を示すために、
ロバの子が選ばれました。
 
イエスさまは「あなたが必要です。」
と仰っておられます。
 
主がお入用なのです。
 
小さな私たちもイエス様のお役に立つことが出来ます。
 
うれしいですね。
 
どんなことでも、
喜んで、
イエス様のお役に立たせて頂きましょう。
 
NHKさん
 

 
(思い通りにならない…)
 
 
「『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、
『主がお入用なのです』と言いなさい。」
 
(マルコ11の3)
 
 
 あなたは将来、
どんな仕事に就きたいと思っていますか。
 
そのために今、
どんなことを学び、
備え、
取り組んでいるでしょうか。
 
 
 人は普段、
自分の関心や能力、
経験や特性などを考えて、
進むべき道や仕事を選択します。
 
しかし必ずしも自分の関心や
願いにかなった所に進めるとは限りません。
 
 
 しかしたとえ自分には「なぜ」と思う道に導かれても、
それで私たちの生涯の良し悪しが決まるのではありません。
 
ろばの子が救い主を乗せたように、
人の目には不釣合いに見えても、
神さまの目には最善の道もあるのです。
 
神さまの愛を信じて生きるとき、
そこが最も幸いな道と変わるのです。
 
 
(FNS)
 

仲間を大切にしよう!
 
 「あなたの隣人を、
あなた自身のように愛せよ。」
 (マルコ12:31
 
 ある時、
こんな言葉を聞いたことがあります。
 
 「忍びの世界で、
掟やルールを破るやつはクズ呼ばわりされる。
けどな、
仲間を大切にしないやつは、
それ以上のクズだ!」
(そのまま引用しました。)
 
 また孔子も、
「自分がやりたくないことを、
命令だからとか仕方ないからとかいって、
人にやってはならない。」
と言っています。
 
 自分がやられて嫌な思いをしたならば、
人にはやらない!
というのは当たり前のことです。
 
 でも人は誰でも、
命令されたり強要されたりすると、
自分の思いは違っても言われたから仕方なくやってしまう
・・・という弱さがあります。
 
 しかし、
自分の身近にいるクラスメイトや仲間に対して、
優しく思いやる心があるならば、
たとえどんな命令であっても、
その命令をはねのける強さと勇気があるはず!
 
 人に左右されず、
自分を曲げない強さを持とう!
 
これは頑固とはまったく違うものです。
 
 私たちの強さの源は、聖書のみことばなのだから。
 
「ぴよ」
 

 
(ほめられたい)
 
 
「この貧しいやもめは、
献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」
 
(マルコ12の43)
 
 
 周りの人があなたをほめてくれるのはどんなときでしょうか。
 
多くの場合、
何かの能力や働きなどで、
優れたものを示したときです。
 
 
 元々は結果として周りの評価や
ほめ言葉があるのですが、
いつの間にかそれが目的に
すり替わる危険があります。
 
どうしたら周りに認められ、
ほめられるかを先に考えて、
自分の行動を選択していく、
人の目にしばられた生き方です。
 
 
 しかし、
貧しいやもめの献金の価値を
本当に知っていたのはイエスさまだけでした。
 
本当に正しく私たちを知り、
評価できるのはイエスさまだけです。
 
あなたはこの方から「よくやった」
という声を聞きたいと思いませんか。
 
 
(FNS)
 
 

「目をさましていなさい。」
 
イエスさまは、
世の終わりとキリストの再臨について話されました。
 
そして弟子たちに、
いつ主が来られても備えが出来ているように
「目を覚ましていなさい。」と言われました。
 
「目を覚ましている」とは、
どういうことでしょうか。
 
学校でテストがある時、
前もって準備をするでしょう。
 
それと同じだと思います。
 
イエスさまがこの世を締め括るために、
もう一度来られるときに試されるのは、
私たちの信仰です。
 
救い主イエスさまにしっかりと信頼し救われていること、
いつもイエスさまを喜び、
イエスさまに祈り、
すべてのことを感謝していること、
それが「目を覚ましている」ことだと思います。
 
NHKさん

「わたしの願うことではなく、
あなたのみこころのままを」
 
イエスさまが十字架に掛けられる前の晩、
ゲッセマネと言う場所で祈られました。
 
ゲッセマネとは「油しぼり」という意味です。
 
オリーブの実をうすで挽いてオイルを絞るのです。
 
そのオイルは傷口に塗る薬となり、
また、暗闇を照らすランプの燃料となります。
 
イエスさまは、
私たちの心を照らすまことの光となるために、
罪で傷ついた心をいやすために、
十字架に掛かってくださいました。
 
イエスさまも出来ることなら避けたいと思われましたが、
しかし「わたしの願うことではなく、
あなたのみこころのままを」と、
自分の願いよりも、
父なる神の御心に従う道を選ばれました。
 
NHKさん
 

(いっしょにいましたね)
 
「あなたも、あのナザレ人、
あのイエスといっしょにいましたね。」
(マルコ14の67)
 
 英語のことわざに
"A friend in need is a friend indeed."
というものがあります。
 
日本語では
「まさかの時(in need)の
友こそ真(indeed)の友」となります。
 
 ペテロはまさか自分が
イエスさまを知らないなどと言うとは
夢にも思っていなかったはずですが、
その身に危険を感じたとき
「その人を知りません」
とイエスさまとの関係を否定してしまいました。
 
 しかしそんなペテロをイエスさまは拒まないで、
復活後「わたしを愛しますか」
とたずねてくださいました。
 
これこそ真の友の言葉です。
 
私たちがまさかと思う
大きな失敗をしたときこそ、
真の友はイエスさまだと
いうことが心の底からわかる瞬間です。
 
(FNS)
 

(きれい好き?)
 
「『あの人がどんな悪い事をしたというのか。』
彼らはますます激しく
『十字架につけろ』と叫んだ。」
(マルコ15の14)
 
 イエスさまはなぜ十字架にかけられたのでしょう。
 
どんな罪を犯したというのでしょう。
 
イエスさまが十字架につけられたのは、
罪を犯したからではなく、
犯さなかったからです。
 
悪人だったからではなく、
正しい人だったからです。
 
 私たちは身近に、
きよく、
正しく、
汚れのない存在がいるのは、
実は嫌いです。
 
自分がみじめになるからです。
 
他と同じぐらいがいいのです。
 
しかし本当にみじめな人はだれでしょう。
 
それは自分の本当の姿を認められない人です。
 
 十字架は私たちの心の姿そのものです。
 
もしそれを認めて生きるなら、
私たちの心から、
みじめさは不思議と消えて行きます。
 
(FNS)
 

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
 
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」
とはアラム語で
「わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味です。
 
イエスさまは、私たちのすべての罪をかぶせられ、
汚れたものとなり、
きよい神から見捨てられました。
 
油が水と混じらないように、
きよい神は汚れた罪を受け入れることが出来ません。
 
ほんとうなら、
罪ある私達が神から見捨てられるところでした。
 
しかし、
イエスさまが私たちの罪の身代わりとして
罰を受けてくださったので、
わたしたちは見捨てられないどころか、
神の子どもとして、
愛の中に受け入れられているのです。
 
NHKさん
 

(だれかいるでしょうか)
 
「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、
だれかいるでしょうか。」
(マルコ16の3)
 
 今、
何か心配なことがありますか。
 
それは自分で今、
何とかできることでしょうか。
 
またはだれかにどうにかしてもらえるものでしょうか。
 
私たちの心配事はともすると、
心配してもどうすることもできないことが多いものです。
 
 復活の朝、
墓に向かった女たちの心配も、
結果的には心配する必要のなかったことでした。
 
石はとうに動かされていました。
 
反対に、
復活されたイエスさまは、
女たちや弟子たちの信仰に心を配り、
時を選んで現れてくださいました。
 
 自分が心配するのではなく、
イエスさまが私のことを心配していてくださる。
 
今日も、
そのイエスさまの細やかな
心配りに信頼して生きるのがベストです。
 
(FNS)
 
 

「全世界に出て行き、
すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
 
クリスチャンに与えられた使命は、
すべての造られた者に、
福音を宣べ伝えることです。
 
福音とは「良き知らせ」「グットニュース」です。
 
「あなたの罪は赦されました。
 
イエスさまの十字架で既に赦されています。」
ということを知らせるのです。
 
宣べ伝えても皆が信じる訳ではありません。
 
しかし、宣べ伝える人がいなければ、
誰もイエス様を信じて救われることは出来ません。
 
ですから、私達は、
お祈りしながら福音を宣べ伝えます。
 
あなたは、
どんな方法で、
友だちに福音を宣べ伝えますか。
 
NHKさん