もう限界!
「もし、
私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から私たちを
きよめてくださいます。」
(Ⅰヨハネ1:9)
もう限界!
これ以上は無理!
ある日の夕方、
家出を実行した。
車で、
どこかへ行ってしまおうと、
エンジンをかけると、
いつも聞いている曲が流れてきた。
「♪イエスさまは答えてくれた
静かに両手を広げて
その手の平に
釘を打たれて
十字架にかかってくださった
それは
ぼくの罪のため
ごめんね
ありがとうイエスさま♪」
私は怒って、
情けなくて、
どうしようもなくて、
イエスさまの十字架を
見上げていなかった。
何と、
こんな私のためにも、
イエスさまは十字架に
かかってくださった。
(ふ)
スッキリと、スカッと
御子イエスの血は
すべての罪から
私たちをきよめます。
Ⅰヨハネ1:9
日本の水って良いですね
だけど海外のある地域の水は
すこし変わったものが含まれているので
ちょっとヌルヌルします
そんな水でシャワーを浴びると
ソープをちゃんと洗い流したのに
いつまでたってもからだがヌルヌル
だからシャワーを浴びてもスカッとしない
ストレスですよ、これは
反省とかも大切だけど
混じりけのない神さまの赦しの恵みがあって
心はスカッとします
御子イエスの救いによって
スッキリ生きていこうよ
「なた」
キリスト以外は何も
「キリストは、
私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。」
(Ⅰヨハネ3:16)
昨今、
話題の新島八重が列席した洗礼式で、
高島青年は「キリスト以外は何もいらない」と言って受洗しました。
日本人の心に息づいた武士道の精神が、
キリストのためにいのちを捨てることを容易にしたと言われます。
主がまず、
言い知れない苦悩とともに私のために尊いいのちをお捨てくださいました。
どうして小さな自分のいのちをお捧げしないでいられましょうか!
「キリスト以外は何もいらない」
この精神に生きる時、
私たちの生活も心も生き様も変えられて行くはずです。
いつでも「ONLYキリスト」
といえる信仰者になりたいですね。
(R)
うちの主人、ああ見えてもやさしいんです。
近所に夫婦ゲンカの絶えない家がありました。
大声でケンカするので隣の家まで聞こえてくる。
次の朝、
ゴミ出しの場所で隣の奥さんと顔が合ってしまいました。
「いつもうるさくて、すみません。
でも、ああ見えてもウチの主人やさしいんです。」
「えっ…?」
何を言おうとしているのか分かりません。
「ウチの主人、
どんなにケンカしても決して私の一番弱いところは突かないんです。」
その奥さんは足が不自由でした。
しかしご主人は、
大ゲンカした時でも、
そのことだけは決して口にしないそうです・・。
「ことばや口先だけで愛することをせず、
行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」
Ⅰヨハネ3:18
(ヨップ)
ヨハネの手紙第Ⅰ4:10-11「神さまの目」
神さまの目
「私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し…
神がこれほどまでに私たちを
愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
(第一ヨハネ4章10・11節)
こうならないといけない。
ああしないといけない。
そうじゃないと嫌われてしまう…
友達との関係で、悩んだ時がありました。
友達と違うことが少しでもあると
嫌われてしまうという不安がありました。
神様はそうではありません。
私が何か特技があるから、頭が良いから、
スポーツが出来るから、
そんな理由で私たちを評価する方ではありません。
また、
私たちが神様をどれだけ愛しているかで
神さまの愛の量も変わってくるわけではありません。
神さまは無条件で私たちを愛しておれます。
何が出来るか、
何をしてくれるかではないのです。
なんだかほっとします。
この事を知った時、私は私のままでいい。
もちろん、私の友達もそのままでいい。
違う所があってもそのままで素晴らしいんだ。
そう思えるようになりました。
私たちの評価の基準は神さまです。
自分自身も、他の人も、
神さまの目で見ることが出来たら素晴らしいと思います。
(アップル)
直接的(ちょくせつてき)
「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、
紙と墨でしたくはありません。
…行って、顔を合わせて語りたいと思います。
私たちの喜びが全きものとなるためにです。」
(Ⅱヨハネ 2)
メールやインターネットによる情報のやり取りに、
今さらケチをつけようとは思いません。
このデボーションだって、
そういう情報の一部ですから。
ですが、今日の聖句は、
お互いのコミュニケーションを
どうとっていくかを考えさせられるものではあります。
この手紙に続く「ヨハネの手紙第三」にも、
似たようなことがかかれていますね
(確かめてみてください)。
「紙と墨」(あるいは「筆と墨」)という手段を使わずに、
「行って、顔を合わせて」。
この直接の対面、
交流が、お互いの意思の疎通(そつう)に
必要とされるケースはよくありますね。
それ、苦手だなあ、と思う人もいるでしょう。
イエス様にある交わりが豊かになるためならば、
お祈りして、一歩踏み出でないでしょうか。
* 神さま。
ちょっと、ケータイに頼りすぎているかもしれません。(反省)
〝メガネいちば〟
困った人の5つの特徴
「…彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、
私たちの言うことを聞き入れません。」
(Ⅲヨハネ 9)
「ヨハネの手紙 第三」は、
1ページ分のとても短い書ですから、
すぐに読めます。
そこに登場するデオテレペスなる人物の姿に、
いわゆる「困ったな」という特徴が5つあります。
①かしらになりたがる
②(近づこうとする人の)言うことを聞き入れない
③している行為に大いに問題あり。
特に、意地悪いことばでののしる
④兄弟たちを受け入れない
⑤兄弟たちを受け入れたいと思っている人々の邪魔をして追い出す・・・
教会やクリスチャンの交わりに限らず、
このような人がいた場合、
「困ったな」ということになるでしょうね。
今、祈りたいのは、
このような特徴が、
大きな顔をして居座りませんように、
ということ。
そして、
「悪を見ならわないで、善を見なら」(11節)
うことができますように、と。
*神さま、
どうか、私の通う教会を、教会学校を守ってください。
〝メガネいちば〟
クリスチャンであることの4つの証し
「デメテリオはみなの人からも、
また真理そのものからも証言されています。
私たちも証言します。
私たちの証言が真実であることは、
あなたも知っているところです。」
(Ⅲヨハネ 12)
「ヨハネの手紙 第三」から、
今度はデメテリオなる人物の姿に注目しましょう。
この人については、ただ一つのこと、
「証言されている」とだけ言われています。
言いかえれば、彼はよいクリスチャンです、
とだれかが証言するということです。
だれが証言するのでしょうか。
①みなの人が(彼と交わりのあった、教会の仲間)
②真理そのものが(彼の歩みはみことばのとおりでした)
③私たちが(使徒であるヨハネ先生が心に留めていたようです)
④あなたが(この手紙の受取人であったガイオは、
ヨハネ先生の言うことなら間違いない、とそのまま信頼したわけです)
私たちも、よいクリスチャンであることが、
だれからも証言されるようでありたいものですね。
*神さま。
私がクリスチャンであることを、
みんなが知ってほしいです。
〝メガネいちば〟