イムマヌエル綜合伝道団/教会学校課

イムマヌエル綜合伝道団 / 教会学校課

こころはハレルヤ

 神さまの約束

 
「なぜなら、
福音のうちには神の義が啓示されていて、
その義は、
信仰に始まり信仰に進ませるからです。」
ローマ人への手紙1:17
 
 
 神の義とは何でしょうか?
 
とても難しい言葉に聞こえます。
 
旧約聖書の中で神の義というのは、
神さまがご自分の約束(契約)に忠実で、
約束を果たすために愛をもって行動することを言います。
 
神さまはイスラエルとの契約を果たすために、
ご自分の御子イエスさまを私たちに与えてくださいました。
 
神さまの約束はどのようにして始まるのでしょうか。
 
それは私たちが神さまの約束を信じて、
信頼し続けるときです。
 
ですから、
神の義は信仰に始まり、
信仰に進ませるのです。
 
今日も神さまの約束を信じましょう。
 
(たか)
 

ストレートにそのままを見て

「善を行うすべての者には、
ユダヤ人をはじめギリシア人にも、
栄光と誉れと平和が与えられます。
神にはえこひいきがないからです。」
(ローマ2:10,11
 
 
 
総理大臣が急に辞任することになって
次の総裁を決める選挙が
行われているけど、
なんだか、
やる前から結果はわかってるんでしょ?
っていう感じです。
 
 
 
派閥がある候補者を推すと決めれば、
その派閥の人数がそのまま
その候補者の得票数になる。
だから勝つのはこの候補者・・・
 
 
 
でもいくら同じ派閥だって言っても
何十人もいる人たちが
全員同じ候補がいいと思うことなんて
ほんとにあるの?
 
 
 
結局、だれの主張が本当に正しいか、
だれの政策が国のために必要か、
っていうことよりも
だれの味方をしておけば
自分が得なのか。なんだね。
…に見えて、なんだかしらける。
 
 
 
人間の判断は、どうしても
自分の好みや自分の損得に
左右されてしまいます。
それがまた新たな問題のもとに
なってしまうこともしばしば。
 
 
 
でも神さまはちがいます。
神さまにはえこひいきがない。
=完ぺきに公正な目で
一人ひとりを見てくれている。
 
 
 
正しいのはこっちだけど、
今回はいろんな都合で
あっち、ってことにしておく。
なんてことはぜったいにありません。
 
 
 
ストレートにそのままを見て、
ちゃんとふさわしく報いてくれる。
今週もちゃんと見ていてくれます。

あっちもこっちも立てるたった一つの方法

「それでは、私たちは信仰によって
律法を無効にすることに
なるのでしょうか。
決してそんなことはありません。
むしろ、
律法を確立することになります。」
(ローマ3:31
 
 
 
人が動かなければ
コロナは収まるけど経済は大変。
でも人が動けば
経済は動くけど、コロナも広まる。
 
 
 
今回のコロナでつきつけられる
“どっちを取る問題。
しばらく前に書いた
マスクと熱中症もそうだし、
この感染予防と経済の問題もそうです。
 
 
 
あっちを立てればこっちが立たない。
ってほんとに困っちゃう。
両方がなんとか立つポイントはどこなのか。
そこを見つけるのが
いちばんの課題とも言えるでしょう。
 
 
 
律法と信仰の二つも
あっちを立てればこっちが立たないように見える。
恵みによる信仰が大事なんだから、
律法なんてどうでもいいでしょ。
もういらないでしょと考える人がいるけど、
それはちがうんだなー。
律法は今もちゃんとあって罪は処罰される。
 
 
 
でも律法をちゃんと守ろうと、
私たちがどんなにがんばっても、
完ぺきに守ることなんてぜったい無理。
 
 
 
えー、じゃあどうするの?!
っていうこの問題に
たった一つだけ両立ポイントがありました。
それがイエスさまの十字架。
 
 
 
イエスさまは十字架によって
律法を完ぺきにクリアしてくれました。
そして信じる人も完ぺきにクリアした
と認めてくれる。
っていうんだからおどろき。
 
 
 
両方がちゃんと成立するたった一つの方法。
私たちは受け取りさえすれば
いいっていうんだから、
ほんとにありがたいことですね。

約束を信じる

 
「神には約束されたことを
成就する力があることを堅く信じました。」
ローマ人への手紙4:21
 
アブラハムには子どもがいませんでした。
 
その上、
アブラハムも妻のサラも高齢でした。
 
しかし、
神さまは「子どもを与える」と約束したのです。
 
普通に考えるとありえないことでした。
 
しかしアブラハムは、
神さまは約束を果たす力を持っていると信頼したのです。
 
私たちも、
自分の能力の限界を感じて、
あきらめることもたくさんあると思います。
 
聖書は、
神さまご自身と神さまの約束を求めるよう、
私たちを励ましています。
 
神さまは必ず、
約束したことを成就してくださるからです。
 
聖書は神さまの約束で満ちています。
 
その一つ一つを私たちは堅く信じることができるのです。
 
(たか)
 

それがあれば今日も安心

「こうして、私たちは
信仰によって義と認められたので、
私たちの主イエス・キリストによって
神との平和を持っています。」
(ローマ5:1
 
 
 
社会で生きていると、
どんなグループや組織の一員にもならない
ということはほぼ不可能です。
 
 
 
そこでかなり大切なのが
リーダーとの関係。
担任の先生や部活の顧問。
上司や会長・・・。
そういう人たちとの関係が良ければ
まあ安心していられる。
 
 
 
でも、そこがもめてると
何かとひっかかって居心地が悪く、
やがては「やめようかなー」
っていう話になっていく可能性も。
 
 
 
神さまとの平和を持っている。
それは、この世界・宇宙の
最高リーダーと
うまくいっている。ということ。
 
 
 
リーダーとうまくいかない原因は
リーダー自身が変。
ということもあるし、
メンバーであるこっちに問題あり。
のこともある。
両方問題。ってことももちろんあるでしょう。
 
 
 
でも神さまとの関係では、
問題の原因は全部私たち側。
神さまの愛の配慮はすべて完ぺきなのに、
言われたとおりにしたくない。
思いどおりにはなりたくない。
とはねつけているところにあります。
 
 
 
人間のリーダーは
謝ろうとしても機嫌が直らない。
謝罪を素直に受け取ろうとしない。
なんてことがある。
 
 
 
でも神さまは私たちが悔い改めるなら、
その瞬間に「全部もういいよ」
と言ってくれる。
 
 
 
そしてさらに豊かな愛を注いで
導き守ってくれます。
ここにいていいんだ。
っていう本当の安心をもつことができます。
 
 
 
神さまとの平和、持っていますか?
持っているなら今日も安心です。 

まあるくなろう!

 
 「・・・それは、
患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出すと
知っているからです。」
ローマ人の手紙5:34
 
 ひいらぎと言えば、
クリスマスを思い浮かべると思います。
 
 ひいらぎの葉っぱは
先がとがっていて、
他の葉っぱとは違い、
手に取る時に
気をつけないと痛いですよね。
 
 でも知っていますか?
 
 ひいらぎの葉っぱは、
時が経つと少しずつ角が取れてきて、
まあるくなるんです。
 
 風雨にさらされ、
厳しい夏の暑さや
冬の寒さに耐えて、
長い時間をかけて
角が取れ丸くなるんです。
 
 私たちのまわりでは、
いろんなことが起こります。
 
 時には嫌になることや、
逃げだしたくなることも、
苦しくなることもあるでしょう。
 
 でも、
そこで祈りながら忍耐して
進んで行くことができれば、
人間がまあるくなり、
品性が磨かれていくと思います。
 
 忍耐も、
神さまに祈りながら進んで行けば、
案外、
大丈夫なものですよ!
 
「ぴよ」
 

希望はどこから?

 
「この希望は失望に終わることがありません。」
ローマ人の手紙5:5
 
私たちの人生は思い通りにいかないことの方が多いです。
 
うれしい出来事よりも、
大変なことも多いし、
期待通りになるより、
期待外れの方が多いのです。
 
悪いことが続くと、
次もうまくいかないかも・・・
とネガティブな考え方になってしまいます。
 
聖書はいつも私たちに、
希望を持つように励ましています。
 
どんなに大変なことがあっても、
思い通りにならなくても、
神さまが自分にとって一番良いことを
してくださると信じることができるからです。
 
それが、信仰です。
 
ですから私たちの希望は信仰が土台になっています。
 
その希望は決して裏切られません。
 
(たか)
 

 信仰はどこから?

 
「神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
ローマ人の手紙5:5 
皆さんには信頼のおける、
親友と呼べるような友だちはいますか?
 
いつからその友だちを信頼していますか?
 
私たちはなぜ人を信用するのでしょうか?
 
それは、
その人が良い人だ、
自分のことを考えてくれている人だと思うからです。
 
言い換えると、
その人の愛が分かると、
その人を信頼するのです。
 
私たちの信仰もまったく同じです。
 
私たちは、
イエスさまが私のために十字架上でいのちを捨てて、
ご自身の愛を示してくれたので、
イエスさまを信頼することができるのです。
 
信仰は愛から生まれるのです。
 
愛のない信仰は存在しません。
 
(たか)
 

 罪の結果

 
「その当時、
今ではあなたがたが
恥じているそのようなものから、
何か良い実を得たでしょうか。」
ローマ人の手紙6:21
 
 テレビのニュースや新聞には、
犯罪者が逮捕されたとか、
裁判が行われたという
ニュースが毎日のように
報道されます。

 罪には必ず相応の
刑罰が伴います。

 私たちが神様の前に犯した罪は、
イエス様の十字架によって
赦していただくことができるとは、
本当に感謝なことです。

 そこで、
ちょっと考えてみてください。

 自分の犯した罪は自分にとって
何か良いものをもたらしたことが
あっただろうか?と。

 イエス様を信じることなく、
「罪の奴隷」となって、
自分のやりたいように
罪を重ねていったら、
自分はどうなっていると思いますか?

 聖書には罪の行き着く所は
死だと書かれています。

 罪は何一つ、
良い結果をもたらすことがありません。

 厳粛なことですね。

(かわこ)
 

天と地がひっくりかえるくらいの差

「こういうわけで、今や、
キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは
決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある
いのちの御霊の律法が
罪と死の律法から
あなたを解放したからです。」
(ローマ8:1-2
 
 
 
新しい内閣が発足しました。
今回は与党から与党だから、
何かがガラッと変わってしまう
ということはないでしょう。
 
 
 
でもこれが資本主義から共産主義、
民主主義から君主制
のような変化だったら、
私たちの日々はまちがいなくすっかり変わる
ということになります。
 
 
 
自分がかせいだものが
自分のものでなくなったり、
自分の考えを自由に述べることが
できなくなったり。
 
 
 
今私たちは自由の側にいるから
生活が変わるということは、
不自由になるということ。
香港などは今まさにそのまっただ中です。
 
 
 
その逆ももちろんあります。
私たちには考えられないくらい
不自由を強いられている国の人たちは
どんなに自由を求めていることでしょう。
 
 
 
私たちが救いの恵みを
いただいたとき、
まさにそのくらいのものすごい変化が
起こったんだよ。
と言っているのが今日のみことばです。
 
 
 
罪と死の律法にしばられて、
滅びと永遠のさばき行きから
逃れられなかった私たちが
そこから解放されて
いのちの御霊の律法の中に移してもらった。
 
 
 
それは君主制が民主主義になる
どころじゃないもっともっとすごい大変化。
もとの不自由と今の自由の差、
どのくらいピンと来ているでしょうか?
 
 
 
それは天と地がひっくりかえるくらいの
ものすごい差。
そのことが
はっきりわかりますように。 

無駄なことは何もない

 
「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」
ローマ人への手紙8:28 
私たちの生活の中には、
無駄だったと思うことがあります。
 
努力しても報われなかった、
希望していたこととは違う
残念な結果に終わることがたくさんあります。
 
そんな時は、
どんな人でもがっかりして、
落ち込みます。
 
聖書は落胆しやすい私たちに、
神さまは
「すべてのことを働かせて益に変えて下さる方」
だと教えています。
 
どんなに報われなかったとしても、
期待通りいかなくても、
私たちの人生には無駄なことは一つもありません。
 
必ずそこには神さまの目から見た価値があるのです。
 
結果が大事なのではなく、
そこに至るプロセスを神さまは見ておられます。
 
(たか)
 

なぜ、勉強するの?

 
 なぜ、学校に行かなくてはいけないの?

 なぜ、勉強しなくてはいけないの?
 学校や勉強が楽しければ、
いいけど、そうじゃないと辛いですね。
 私は、中学時代、学校は行ったけれど、
勉強はさぼり、教会は行ったけれど、
説教は聞いていなかった。

 絵(まんが)ばかり描いて、
3年間もったいないことを
してしまいました。

 高校生になって、勉強の楽しさを知り、
信仰を回復して聖書が楽しくなりました。

 でも、中学からの積み重ねが
必要な教科は、取り戻せませんでした。
 将来、何をしたいのか、何になりたいのか、
分からない間は、とりあえず勉強がんばろう。

 夢を見つけたら、神様のみこころかどうか、
確かめよう。

 違っていたら、みこころを選び取ろう。
 私は、伝道者になって、
CSの教材に絵が役立っています。

 神様の御手の中では、全て無駄になりません。

 頑張れ!
「神を愛する人々、すなわち、
神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを
働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。」
ローマ人への手紙8:28

(シロクマ)
 

どうやって回収してくれるのか楽しみ

「神を愛する人たち、
すなわち、神のご計画にしたがって
召された人たちのためには、
すべてのことがともに働いて
益となることを、
私たちは知っています。」
(ローマ8:28
 
 
 
小説や映画、ゲームなどで
よく使われる伏線。
後で起こることをほのめかす準備や仕込み。
 
 
 
伏線がうまく張られていると、
最後になって
あ~、あれはこういうことだったんだね!
ってわかってスッキリ。
 
 
 
回収がうまくいくほど
作品全体もおもしろくなります。
次々明らかになって鳥肌が立った!
なんて言われるミステリーとか、
よくありますね。
 
 
 
伏線はストーリーを最後まで
知っているからこそ張れるもの。
読者は最後を知らないから
ハラハラドキドキするけれど、
作者にとってはすべて織り込み済み。
すべては解決に向かって行きます。
 
 
 
私たちの毎日にも
ハラハラドキドキ、このままいったら
どうなっちゃうんだろう?
と思うようなことがたくさんあります。
 
 
 
でも神さまに信頼しているなら、
神さまは私たちの益になるように
すべてのことをちゃんと進めてくれている。
 
 
 
私たちは全部が見えないから
ハラハラしてしまうけれど、
神さまは私たちに見えないところまで
全部ちゃんとうまく働かせてくれています。
 
 
 
最後は必ずまとまるように、
解決するように、
動かす力を持っておられます。
 
 
 
だから私たちは悩んで困るんじゃなく、
どうやって回収してくれるんだろう?
楽しみ!っていう気持ちで
過ごせばいいのでは。
 
 
 
今週もすべてのことは
ちゃんと益に向かっている。
だから悩むより楽しみましょう!

ねがいはありがとう

 
「私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ローマ人への手紙8:32
 
もしも かみさまに 
たったひとつだけ ねがうとしたら
あれにしようか これもほしいな
いつも かなえてほしい ことばかりで なにかちがうね 
ねがうことは かみさま ありがとう
かみさまに きいてほしい ほんとのきもち  
きみがいて わたしがいて かみさまがいてくださる
ねがいは ありがとう  かみさま ありがとう  
(さんびか「ねがいはありがとう」)
 
   ひとり子さえもおしまないで与えてくださって、
神さま、ありがとうございます
 
 〝メガネいちば〟
 

負けない戦い

 
「絶対に負けられない
戦いがそこにはある!」
TV局の、
日本代表戦中継のキャッチフレーズだ。
 
それくらい真剣に戦う選手達を、
応援する人も真剣に!
 
というメッセージかな。
 
みんなは
「絶対に負けない戦いがある」
ことを知ってる?
 
それはイエス様の戦いで、
要は勝ち続けたければ
イエス様の側に立ち続けよう!ってことが、
勝利の秘訣。
 
でも時にはコレが難しい。
 
敵の作戦は、
私達の目をイエス様から離させること、
イエス様のことを考えさせないようにすること。
 
それに気をつけてさえいれば、
たとえ試合に負けても、
失敗しても、
自分の思い通りに行かなくても、
私達は私達を愛してくださるイエス様によって、
圧倒的な勝利者になれるんだ。
ローマ人への手紙8:37
 
 びい
 

②キャンプ

 
「人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。」
 
 
 キャンプの最終日、
「イエス様を信じてお祈りしたい人は?」と尋ねられた。
 
もちろん、
救われたいけれど、
隣りにいるのは、
キャンプでお世話になったスタッフのお姉さん。
 
あこがれのお姉さんをガッカリさせたくないなんて、
変な気をつかって、
教えてもらった通りのお祈りを上手にして、
救われたことにした。
 
それからの数年間、
重く苦しい心で過ごすことになってしまった。
 
神さまに、
心に引っかかっていることをそのまま、
自分のことばで祈る時、
私の罪のために十字架にかかって下さった
イエス様による赦しと救いを知ることができます。
 
(ふ)
 

分からないこと

 
「ああ、
神の知恵と知識との富は、
何と底知れず深いことでしょう。」
ローマ人への手紙11:33
 
 聖書は、
分からないことがたくさんあります。
 
神さまのことも分からないことがたくさんあります。
 
私は東日本大震災の
ボランティア・グループに参加しましたが、
「なぜ、
こんな辛いことが起きたのだろうか」
と心の底から思いました。
 
神様がおられるのに、
自然災害や恐ろしい出来事はどうして起こるのでしょうか。
 
私たちは正確に答えることができません。
 
「分かりません」と言うしかないのです。
 
それでも聖書に書かれていることは神様が愛と恵みに満ち、
あわれみ深く、正しい方であるということです。
 
それが聖書の答えなのです。
 
(たか)
 

もてなしの心

 
普通、「おもてなし」というと、
最高の料理を出し、
会話が途切れないように気を配り、
客を退屈させないように
することだと思いがちです。
 
でも、
ある本に「もてなしとは、
相手を縛らないで客に友情を、
そして、
相手をひとりぼっちにしないで
客に自由を提供することだ」と書いていました。
 
無意識のうちにこちらのスタイルを強要してしまうのを避け、
相手が自分なりのスタイルを
見出す場を提供することが「もてなし」だというのです。
 
教会に誰かが訪れた時、真理の強調で相手を縛らないで、
その人と出会えたこと自体に
心から感謝して交わることができればいいなあと祈っています。
 
『隣人を愛する』
ローマ人への手紙13:9
という戒めの要を実行していく者になりたいです。
 
(グッドビレッジ)