イムマヌエル綜合伝道団/教会学校課

イムマヌエル綜合伝道団 / 教会学校課

こころはハレルヤ

 「IGMって?」

 
「インマヌエル。
その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」
 
(イザヤ8:8)
 
 
IGM(インマヌエル綜合伝道団)、
インマヌエル教会が属する教団のこと。
 
その始まりは?
 
1942年キリスト教弾圧のために蔦田二雄牧師は2年間投獄されました。
 
その劣悪な独房の中で神様の特別なご臨在に触れ、
ヴィジョンを受けて、
1945年敗戦とともに創設。
 
学校にも校訓があるように、
IGMにもスピリットがあります。
 
今日の聖句もその一つ、
「宣教」です。
 
初代総理、
蔦田師はまだ数人のころから
世界宣教のビジョンをもって発足。
 
結果、
国いっぱいに、
そして世界に広がりました。
 
知れば知るほど、
どんなに尊い祈りと犠牲の上に、
現在の教会と自分の救いがあるかがわかります。
 
ぜひ蔦田二雄全集をお読みください。
 
 
R
 
 

ダイヤモンドよりほしいもの

「ひとりのみどりごが
私たちのために生まれる。
…その名は『平和の君』
と呼ばれる。」
(イザヤ9:6
 
 
 
アフリカのシエラレオネという国では
たくさんのダイヤモンドが
取れるけれど、
それを売ったお金は
みんな武器になってしまうそうです。
 
 
 
そして同じ国の中で
女の人も子どももなく無差別に殺しあう。
無理やり兵士にさせられた少年が言った
「ダイヤモンドより平和がほしい」
ということばの重さ。
 
 
 
争いたいと思っている人はいないのに、
なぜ争いがやまないのか。
それこそ、人が持っている問題の
根っこにあるもの。
自分の方が上でありたい、
自分の思いを通したいという思い。
 
 
 
その問題を解決して
ほんとうの平和を与えてくれるのは、
生まれた救い主だけです。
まさにそのために来てくれたのが救い主。
 
 
 
相手がひっこめばいい
と思っている間は、
決して平和はやってきません。
 
 
 
自分が自分をひっこめられるようになる。
そうして初めて実現するのが
ほんとうの平和。
 
 
 
それができるのは
持っていた全部を捨てて
私のために来てくれた救い主を
心に迎えるとき。
 
 
 
平和が始まるのは
まず自分の心の中から。
それを実現してくれる救い主の力を
さらに深く知る
クリスマスでありますように。
 

いなくならないのスケールがちがう

「ひとりのみどりごが
私たちのために生まれる。
…その名は『永遠の父』。」
(イザヤ9:6
 
 
 
永遠に残る名曲。
永遠のスター。
それはその時だけで過ぎてしまわないで
時代を超えていつまでも
みんなの心の中にとどまり続けるもの。
 
 
 
永遠というのは
ずーっと続いて終わりがないこと。
っていうイメージを持っている人が
多いと思います。
 
 
 
確かにそれも永遠の一部分。
でも神さまが永遠というときには、
それだけじゃないそうです。
 
 
 
終わりがないだけじゃなく、
始まりもない。
つまり時間にいっさいしばられない。
ということを意味している。
 
 
 
え〜、それってどういうこと?
いつも時間という制約の中に生きている
私たちには想像がつきません。
 
 
 
永遠の父。それは神さまが
始まりもなく終わりもなく
私たちの父であり続けてくれるということ。
神さまが
私たちの父でなくなってしまうことは、
一瞬もない。ということです。
 
 
 
人間の父親にはいろんな限界がある。
そしていつかはいなくなる。
でも神さまは私たちの父として、
どんなときも私たちのいちばんの幸せを願い、
そのためにどうすればいいか考え、
必要なものは必ず準備し、
あらゆる危険にあわないよう保護してくれる。
 
 
 
そうであってくれることに
始まりもなく終わりもない。
いなくならないのスケールがちがうのです。
めちゃくちゃ心強いですね!
 
 
 
今日もこの方が
完璧な父としてついててくれます。
だからだいじょうぶ。
 

神さまがどうしてもいなくちゃいけない理由

「ひとりのみどりごが
私たちのために生まれる。
…その名は『力ある神。』」
(イザヤ9:6
 
 
 
神さまは力がある。
って聞いて私たちは、
どんなことを思い浮かべるでしょう?
 
 
 
なんとなくだけど、
力がある神さまなら、
どんな願いもかなえてくれるってことだよね。
って思っちゃってることが
多いのではないでしょうか。
 
 
 
もちろん神さまがその気になれば
私たちの願いをかなえることなんて
朝飯前の楽勝。
 
 
 
でもそれは、
神さまじゃなくてもできること。
ある場合には、
自分ががんばりさえすればできる
ってこともたくさん。
 
 
 
そのためだけだったら、
神さまがどうしてもいなくちゃいけない
理由にはなりません。
 
 
 
じゃあ、神さまが
どうしてもいなくちゃいけない理由、
神さまにしかできないことって
なんでしょう?
 
 
 
それは私たちの罪を赦してくれること。
そして、私たちに
永遠のいのちを与えてくれること。
 
 
 
その力だけは、
どこのどんなにすごいパワーの持ち主、
すご腕○○も持っていない力です。
 
 
 
その力をもらわなかったら
私たちは自分の罪といっしょに
滅びなくちゃなりません。
 
 
 
でももらいたい人には
いつでもくれるギガパワー💪
もうもらいましたか?
 
 
 
ここにしかない。ってこと、
忘れずにね。
 

不思議だけどいちばんよくなる助言

「ひとりのみどりごが
私たちのために生まれる。
…その名は『不思議な助言者』。」
(イザヤ9:6
 
 
 
コロナ禍になってから、
国や県からいろんなお願いが出て、
みんなはそれを聞きながら行動しています。
 
 
 
がまんしてね。というお願いもあれば、
Go to〜のようなやってね。
というお願いもある。
逆方向のお願いがいっしょに出ると、
どうしたらいいか迷うこともありますね。
 
 
 
いろんな助言を聞きながら
決めてるんだと思うけど、
ぜひちゃんと聞いて良い判断をしてください!
っていう感じです。
 
 
 
クリスマスに生まれる救い主は
私たちの助言者。
しかも不思議な助言者って
いったいどんな助言者なんでしょう?
 
 
 
この方がくれる助言は、
この世がくれる助言とはぜんぜんちがう
人がどんなに考えても
ぜったいに思いつかない助言です。
 
 
 
「わたしを受け入れ信じれば、
永遠のいのちを持てるようになるよ。
そしてこの世の暗闇と悪と罪に負けないで
ほんとうに安心して生きられるように
なるんだよ。」
 
 
 
どうしてそうなの?
いくら考えてもわからない不思議な助言。
でも耳を傾け聞き入れるなら、
ほんとうにそのとおりになります。
 
 
 
そして毎日の生活の中でも
どうすればいいかを教えてくれる。
いちばん良い決定をすることができるのです。
聞きさえすればいつでも教えてくれます。
 
 
 
今週もこの方の助言に聞けば
ばっちりだいじょうぶ。
聞きながら過ごしましょう。
 

やるだけむだということはぜったいにない

「必ず、
わたしの考えたとおりに事は成り、
わたしの図ったとおりに成就する。」
(イザヤ14:24
 
 
 
それはちょっと変だからやめた方がいい。
といくら言ってみても、
まったく耳を傾けてくれない。
変わりそうな気配すらまったくない。
 
 
 
そうなると私たちは、
そもそも言う気をなくしてしまいます。
言ったってどうせ変わらないなら、
言うだけむだ。
 
 
 
だれにも何も言われないのは
だいじょうぶだからとは限らない。
そこらへん、注意、注意。
 
 
 
ところで今日のみことばも、
神さまが考えたとおりにすべてなる。
ってことは、何言ってもむだ。
何やってもむだ。ってこと?
と思う人がいるかもしれません。
 
 
 
私たちががんばろうがなまけようが、
一生懸命やろうが手を抜こうが
結局結果は同じなの?
がんばって一生懸命やっても
意味ないの?
 
 
 
そんなことはありません。
私たちがクリスチャンとして生きるために
がんばっていること。
だれかが救われるために
一生懸命祈ってさそっていること。
 
 
 
神さまはちゃんと見ています。
ちゃんと見ているというのは
ただ眺めている。っていうだけじゃなく、
ふさわしく報いてくれる。
ということ。
 
 
 
じゃあ考えたとおり、
図ったとおり、ってどういうこと?
それは、神さまに信頼して従う人を祝福する。
でも悪は必ず滅ぼす。ということ。
 
 
 
今はそうは見えないと思うことが
たくさんあっても、
その事実はぜったい変わりません。
 
 
 
やるだけむだ。ということは
ぜったいにない。
信じ従うなら必ず報いと祝福を
もらうことができます。
 
 
 
だから今日もできることは
しっかりやりましょう。
神さまはちゃんと見てくれています。
 
 
 

「恵もうと待っていてくださる神さま」

 
「それゆえ、
主はあなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
主は正義の神であるからだ。
幸いなことよ。
主を待ち望むすべての者は。」
イザヤ書30:18
 
 このみことばでおばあちゃんのことを思い出しました。
 
おばあちゃんの家に遊びに行くと、
おばあちゃんは畑から野菜や果物を採って待っていてくれました。
 
神さまはもっとすばらしいものをくださろうと
私たちを待って下さっているというのです。
 
友だちとの問題、
部活の悩み、
苦手な勉強との格闘などなどに囲まれて、
あなたはどうしていますか?
 
イスラエルの人たちは、
問題を抱えて自分で何とかしよう、
また頼りになりそうな国に助けてもらおうとしました。
 
神さまは、
「そんなことしないで、わたしのところに来なさい。
わたしはあなたを恵もうと待っている。
あなたをあわれもうと立ち上がっているよ。」
とおっしゃいます。
神さまのところに行こう!
 
子基 頼喜
 

もらいそこなったらもったいなすぎ

「それゆえ主は
あなたがたに恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと
立ち上がられる。
幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。」
(イザヤ30:18
 
 
 
1歳の子のヘアカットは大変です。
前髪が伸びて目に入りそう。
後ろ髪が伸びてうっとうしそう。
だから、切った方が本人も
ぜったいにすっきりして気持ちいいはず。
 
 
 
でも、よくしてあげる
という大人の意図はなかなか伝わりません。
「ほら、じっとしてて!」
と言っても、すぐに動いちゃう。
抑えようとしたりしようもんなら、
いやがって逃げようとしたりあばれたり。
 
 
 
結果、動きが止まったわずかのスキを見て、
ちょっとずつ切ることになるから、
余計な時間もかかっちゃう。
ちょっとじっとしてくれればすぐ終わるのにね。
 
 
 
私たちも神さまに対して
この1歳の子みたいな態度を
取ってしまっていることはないでしょうか。
 
 
 
神さまは私たちに恵みを与えよう、
あわれみを与えようとして待っています。
でも私たちは、あー、あれがやりたいな、
これもいいな
と自分で考えたり動き回ったりで忙しい。
 
 
 
そうやって少しもじっとしていないと、
神さまがくれようとしているものを
受け取るチャンスを逃してしまっているかも。
 
 
 
ちょっとじっとして。って言われると、
またしばりつけるわけ?
って聞こえないふりしたり、
逃げようとしたり。
 
 
 
神さまが私たちに何か悪いもの、
良くないものを与えようとして
ちょっと待って。
って言うことはぜったいにありません。
 
 
 
せっかくくれようとしている恵みやあわれみ。
それはぜったいにもらった方がいいものです。
もらいそこなったらもったいなすぎ。
 
 
 
だからぜひもらいましょう。
そのためにちょっとじっとしてみましょう。
神さまはもう待ってくれています。
 
 

「選ぶということ」

 
 
「あなたが右に行くにも左に行くにも、
あなたの耳はうしろから
『これが道だ。これに歩め。』
と言うことばを聞く。』
(イザヤ 30:21)
 
 
「選ぶ」ことが多いですね。
 
パッと決断できる人はいいけれど、
優柔不断で困ることがあります。
 
時間をかけて決めた結果、
後悔したりして。
 
ファストフードで
「どのメニューにしよう」くらいは、
まだ、
次のチャンスもあるでしょう。
 
でも、
深刻な選択、
たとえば進路などは本当に難しいものです。
 
あなたが決めたその道を進むとき、
神さまのみことばが保証してくださるということは、
なんとすばらしく、
どんなにか心強いことでしょう。
 
決める前に、
ちょっと立ち止まって、
祈ってみませんか。
 
「神さま、
正しい−神様が喜ばれる道を
−選べますよう助けてください」と。
 
 
gsh
 

できないことに使っている時間をできることに使う

「荒野と砂漠は喜び、
荒れ地は喜び踊り、
サフランのように花を咲かせる。」
(イザヤ35:1
 
 
 
こんな何もないところでは
いいことなんかあるはずがない。
私たちはよくこんなふうに思うかもしれません。
 
 
 
自分の気分が晴れないのは
この砂漠みたいな環境のせい。
あの砂漠のサソリみたいな人のせい。
サボテンみたいにとげとげした人のせい。
 
 
 
最近読んだ本の中に
こんなことが書かれていました。
「自分にはどうすることもできないことと
自分の力で変えることができることを
区別しましょう。」
 
 
 
自分にはどうすることもできないこと
とは何でしょうか。
砂漠が砂漠でなくなるようにすること。
自分が置かれている環境や
まわりにいる人たちを変えること。
 
 
 
では、自分の力で変えることができること
とは何でしょうか。
その中で自分がどういう心で過ごすか。
ということ。
 
 
 
でも、こんな気持ちじゃいけないと思っても
それもどうすることも
できないこともあるじゃないですか?
 
 
 
その通りです。
だから、私たちにできることというのは
自分で自分の気持ちを何とかすることじゃなく、
その砂漠に花を咲かせる力を持っている
神さまに心を向けること。
そして信頼すること。
 
 
 
悩んだり不平不満を言ったりする時間、
自分のできなさ加減を嘆く時間を
神さまに心を向ける時間に変える。
それなら、私たちにもできますね。
 
 
 
神さまは無から有を生み出し、
死をいのちに変える力を持っている方。
今いる場所が砂漠のようなところなら、
だからこそ神さまのパワーが発揮されます。
 
 
 
できないことに使っている時間を
できることに使う時間に。
ぜひやってみましょう。
 
 

 「ずーっと変わらないもの」

「草は枯れ、
花はしぼむ。
だが、
私たちの神のことばは永遠に立つ。」
(イザヤ 40:8)
 
私が卒業した学校に、
今は子どもがお世話になっています。
 
校舎も
制服も変わっていません。
 
でも、
校則が書かれている生徒手帳の内容にはかなりの変化があります。
 
「○○をしてはいけません。」
という類のルールです。
 
スカートの丈を長くするのや短くするのが流行ったり、
ズボンの裾が太くなったり細くなったり、
中には引きずったり(!)
時代によって「これが一番かっこいい!」
と思うポイントは変化します。
 
数年前のルールや常識が
今は通用しないことがたくさんあります。
 
地域によっても違いがあるでしょう。
 
でも、
時代や場所を乗り越えて、
絶対に変わらないものがあります。
 
それが、
今、
目にしている「私たちの神のことば」です。
 
しょっちゅうかわってしまうものに振り回されずに、
ずーっと変わらないものを土台にしてみませんか。
 
gsh
 

「永遠に立つ神のことば」

 
 草は枯れ、花はしぼむ。
だが、
私たちの神のことばは永遠に立つ。
イザヤ40:8
 
 ショッピングモールが新しくできると
たくさんの人たちがやってきます
 
 どんな店があるのか
どんな面白いものが売っているのか
初めて入るモールには
そんなワクワクがありますね
 
 逆に何度も行ったモールで
見慣れたお店が並んでいるのを見ても
ワクワク感はゼロ
 
 生まれて聖書も初めて
手に取ったときは
ワクワクして
聞いた事も読んだ事も無いコトに
目を輝かせたこともあったはず
それが今ではワクワク感ゼロ
 
 あの店で欲しいものを探したけど
見つからなかった残念感に似た
あのきついときにこの書を読んだけど
励ましを感じなかった
そんな残念感さえも思い出したり
 
 でも
 
 昔から愛されて
たくさんの人たちの必要に
こたえてきた商店街には
確かに必要なものがそろっている
 
そいういう確かさに似たものが
聖書にあります。
 
「なた」
 

「金環日食」

 
 2012年5月21日の
「金環日食」を観ましたか? 

 私の地域では残念ながら、部分日食でした。

 それでも、我が家では、盛り上がりました。

 最も欠ける時刻には、
夕方かと思うような薄暗さの中、
まるで、三日月のような太陽でした。
 
 「奇跡の天体ショー」って
言われてましたが、ある人が、
子どものころ理科の教科書にちゃんと、
この日に金環日食が見られると
書いてあったと言っていました。

 創造主である神様が、
天体を維持し、
何の狂いもなく動かしておられることを
私たちは、知っています。

 そう、奇跡ではないのです。
「目を高く上げて、
だれがこれらを創造したかを見よ。
この方は、その万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。
一つももれるものはない。」
イザヤ書40:26

(シロクマ)
 
 

ほんとの一人ぼっちにはならないってわかってる

「恐れるな。
わたしはあなたとともにいる。
…わたしはあなたを強くし、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
(イザヤ41:10
 
 
 
みなさんは、生まれて初めて
自分一人で外を歩いた時のことを
覚えていますか?
 
 
 
私は小学校一年生のときでした。
それまではうちの前を通って帰る
“本橋くんといっしょに帰ってたんだけど、
その日はなぜか本橋くんが
「オレは今日はこっちから帰る」って言って、
途中で曲がっていってしまったんです。
 
 
 
もう家までは角を一つ曲がればいいとこまで
来てたんだけど、
急に一人にされちゃったショック()
こわくてこわくて、
泣きながら走って帰りました
(遠い日の思い出・・・)
 
 
 
なにかあったら
本橋くんが守ってくれるとか、
まったくそういうわけじゃなかったけど、
だれかがいっしょにいるっていうのは
それだけでやっぱり安心のもと。
 
 
 
大人になれば道を歩くくらいは
一人でもなんのこわいこともないけれど、
いろんなことで「自分は一人なんだ」
と感じてしまうときは
やっぱり心細いしこわいですね。
 
 
 
でもだいじょうぶ。
私たちには神さまがいます。
 
 
 
目には見えないけれど
どんなときにもいっしょにいてくれて、
しかも守ってくれる。
いざというときもぜったいに、
私たちを置き去りにして逃げ出したりしません。
 
 
 
ほんとの一人ぼっちにはならない
ってわかってる。
だから今日も安心して過ごしましょう。
 

「「わたし」って?」

 
「恐れるな。
わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。
…わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
…わたしの名で呼ばれるすべての者は、
わたしの栄光のために、
わたしがこれを創造し、
これを形造り、
これを造った。」
イザヤ43:1,4,7
 
 クラスでは友達2人といつも3人で一緒にいた。
 
あるときふと、
2人が楽しそうに喋っているのを見て「もしかしてうちがおらん方が楽しい?
 
うち必要ない?」と思うようになった。
 
家でも3人兄弟で、
2人は楽しそうにしている。
 
「やっぱりうちはおらん方がええんちゃう?
 
親も、
娘と息子と1人ずつおればええんちゃう?」考え始めたら止まらない。
 
自分の存在する意味がわからなくなって恐くなった。
 
 そんな私にイザヤ書のみことばが光となった。
 
恐くなくなった。神様の愛に信頼して歩んでいこう。
 
「おばあちゃん」
 

「一番大事なもの」

 
「わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ43:4)
 
あなたにとっての宝物は何ですか。
 
自分が今もっている物やどうしても手に入れたい物、
大好きなことをしている時間、
大切な人・・・。
 
いろいろな答えが返ってきそうです。
 
神さまにとっての宝物とは何でしょう。
 
それは「私たち」だと聖書は答えています。
 
だから、
神さまは私たちのためには、
どんな努力や犠牲も、
十字架にかかって命を捨てることさえされるのです。
 
私たちは神さまに本当に愛されているのです。
 
(than)
 
 

 「いつも一緒」

 
 「あなたが水の中を過ぎるときも、
わたしはあなたとともにおり、」
(イザヤ 43:2)
 
いつでも一緒にいられるのが、
幸せか、
それともうざいか、
はその相手によって変わります。
 
その時の自分の気分でも変わります。
 
神さまは、私たちを愛して、
「高価で尊い」と言ってくださり、
しかも救ってくださった方です。
 
神さまは、
気まぐれに愛したり、
愛さなかったり、
一緒にいたり、
いなくなったりすることはありません。
 
ピンチの時も、
順調な時も、
神さまが必要!って思う時も、
そうでもない時も、
いつもともにいてくださるのです。
 
無視するのは、
失礼ですよね。
 
今日一日、
ちょっと意識してみてください。
 
神さまが一緒にいてくださる生活を満喫しませんか。
 
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「神様レンズ」

 
 時々、
「私って、
なんて小っちゃい人間なんだろう」って
落ち込んだり、
「何してんだろ。俺」って
情けなくなったりしませんか?
 
 僕の場合で言うと、
十代の頃から、
ずっとこの感覚が底辺にある気がします。
 
 でもね、
人間ってそんなものかもしれません。
 
 だから、
「わたしの目」と
書かれている神様レンズで時々、
自分を覗いてあげることが必要なのです。
 
 神様レンズで覗いてみたら、
どんなに安物に見える自分でも
「あなたは自分の価値に気づいていないだけだ。
少なくとも、
わたしには貴重な存在だ」って見て下さるのです。
(イザヤ43:4)
 
 そんな絶対肯定に
自分を預けてみるのも
時には必要です。
 
 普段は、
周りから理解してもらえなかったり、
自分も自分がわかっていないところがあるんだから。
 
 肩の力を抜いて
「神様、感謝します」って
つぶやいてみて下さい。
 
(グッドビレッジ)
 

 「たからもの」

 
 
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。』
(イザヤ43:4
 
他の人が見たらつまらない物でも、
自分には思い出深い宝物ってない?
 
捨てちゃえ、なんて言われても、
中々できない。
 
だって私には色々な思い出と結びついてるし、
何よりも僕自身が気に入って好きだから、
他人には無価値でも僕には大切。
 
私が好きだ、
という事実がかけがえのない価値。
 
じゃあ僕自身の価値って何?
 
何ができる?誇れる記録でも持ってる?
 
そういうものがあったら、
他人も私を大切にしてくれるかもしれない。
 
でもそんなものが何もなかったとしても、
神さまにとっては、
私を愛してるって事実が私の価値。
 
他の人が分からなくても、
私の人生の一つ一つを大切思い出として、
そのまま愛していてくださる。
 
あなたは神さまの宝物。
 
びい
 

「愛してるよ」

 
「わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ434
 
 いじめっていやですね。
 
私は体が小さく弱かったので、
小学生のころはいじめられっ子でした。
 
その反動なのか中学生になったら
自分より弱い子をいじめるグループに入っていました。
 
本当に恥ずかしい人間です。
 
だから私は人に向かって
「うざい」「死ね」「消えろ」
という言葉を冗談でも使ってほしくないです。
 
まずは大人である私たちから、
ひどい言葉や態度を改めないといけないです。
 
そして、
あなたのことを愛しているよ、
大切に思っているよという声を発していきたいです。
 
その声を聞いた中高生なら、
きっと自分のとなりの人にも同じように語ってくれると信じています。
 
(友)
 

「無用感」

 
わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
《イザヤ434
 
 部屋の片付けをしようと思い立ち、
「いる」「いらない」と分けはじめると、
意外に不要なものが山ほど出てきます。
 
物には必要・不必要がありますが、人間はそうではありません。
 
 人が一番辛いのは”無用感”だと、
何かの本で読んだことがあります。
 
何かがうまくいかないことも辛いでしょう。
 
けれども”自分は誰にも必要とされていない”と感じることが一番辛いのだと・・。
 
 クリスチャン作家・三浦綾子さんは
「神様は不必要な人間を造られるほど愚かではない。」と言っています。
 
不必要どころか、神様は ”高価で尊い”と言ってくださるのです。
 
 学校では大勢の中の1人と感じることがあるかもしれません。
 
けれども、神様の目には、
”あなたは1人中の1人”なのです。
 
神様にとって、
あなたの代わりは誰もいません。
 
りべ
 

「みんなちがって みんないい」

 
「わたしの目には、
あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。」
《イザヤ434
 
 小学生の頃、
毎日の宿題に「音読」というのがありませんでしたか?
 
我が家の子どもたちはありました。
 
親は聴き役ですが、
毎日だと覚えてしまうこともあります。
 
その1つに金子みすずさんの「私と小鳥と鈴と」という詩がありました。
 
その中に「みんなちがって、みんないい」という一文がありました。
 
とてもステキな言葉だと思います。
 
 まわりを見れば「みんなちがって」いることは心から納得です。
 
けれど、「みんないい」と思えないこともあります。
 
それは、自分に対してであったり、他人に対してであったり・・。
 
 神様は、「あなたは高価で尊い」「あなたはいい」と言ってくださいます。
 
ユニークなあなたはわたしの最高傑作だと言ってくださるのです。
 
感謝と自信をもって進みましょう。
 
また、
他の人も神様が大切にしておられるとの
思いを持てるように祈りましょう。
 
りべ
 

聞いていいのかどうか悩む必要まったくなし

「わたしはあなたの神、主である。
わたしはあなたに益になることを教え、
あなたの歩むべき道に
あなたを導く。」
(イザヤ48:17
 
 
 
今私たちのまわりには
いろんながたくさんあります。
 
 
 
友だちや親、先生、同僚や先輩のように
ちゃんと顔が見える人の声。
世間やSNSの中の声、のように
見えないところから聞こえてくる声。
 
 
 
どの声に耳を傾けたらいいか決めるとき、
やっぱり「だれが言ってるのか」
その人が信頼できるかどうかということが
とても大切。
 
 
 
どちらかと言えば、
世間やSNSのような、顔が見えない声には
注意した方がいいですね。
 
 
 
神さまも私たちに声をかけてくれます。
その声は私たちの心の声を通して、
そして聖書のみことばを通して
聞こえてきます。
 
 
 
神さまがかけてくれる声は
必ず私たちのためを思っている声。
わざと迷わせようとしたり、
いじわるして困らせようとしたり
ということは決してありません。
 
 
 
その声は私たちをいちばん安全なところ、
私たちにとっていちばんいいところに
導いてくれます。
 
 
 
だからその声が聞こえてきた時には
聞いていいのかどうか
悩む必要はまったくなし。
 
 
 
逆に聞こえているのに無視したら
自分から困りにいくようなもの。
ぜひその声が言うとおりにしましょう。
 
 

「⑫20年ぶり」

 
「このわたしは あなたを忘れない。」
(イザヤ49:15)
 
クリスチャンだったお兄さんを、
20年前、
亡くされた方から電話が掛かってきました。
 
毎年、
天に帰られた方々を覚えて、
記念礼拝を守っていることを伝えると、
絶句されました。
 
「忘れられていなかった・・・」そして、
今年、
その礼拝に、
クリスチャンではないけれど妹として出席しても良いか、
と尋ねられました。
 
私たちは忘れやすいし、
自分が忘れられて寂しい思いをすることがあります。
 
だけど、神さまは、
私たちのことを決して忘れないと、
約束してくださっています。
 
イエスさまによって与えられた永遠に変わらない愛です。
 
(ふ)
 

 「⑪言葉でいやす」

 
 
「神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え・・・」
(イザヤ50:4
 
お店でアルバイトをしている、
すてきな人がいます。
 
これから仕事に行くというお客さんと、
レジでひと言ふた言話す時に、
最高の笑顔で、
その人の元気が出るような言葉をかけているうちに、
次から次と、悩みを相談されるようになりました。
 
本当は、自分の体が病気で、
治療を受けていて、しんどいのです。
 
神さまは、不思議なことをされます。
 
自分なんか弱くて、
何の役にも立たないと思ってはいませんか?
 
弱さによって、
イエスさまの力が現わされます。
 
力を与えて、
用いてくださるのは神さまです。
 
(ふ)
 

心の免疫を高める

「しかし、
神である主は私を助けてくださる。
それゆえ、私は
侮辱されることがない。」
(イザヤ50:7
 
 
 
コロナ生活はまだ続いているけれど、
私たちのまわりには、
コロナだけじゃないウィルスやら菌やらが
うようよしているそうです。
 
 
 
でもウィルスや菌があるからと言って
すぐやられてしまうかというと、
そうではありません。
私たちの体にはいろんな防御機能があって
ガードしてくれているからです。
(免疫。っていうんですね)
 
 
 
体だけじゃなく、私たちの心にも
平和を脅かすいろんな攻撃が
しかけられることがあります。
人の心ないことば。冷たい態度。
身に覚えがない批判。などなど・・・
 
 
 
でも私たちにはそこにもちゃんと
防御機能が与えられています。
それは主である神さま。
すべてを知って
私たちを助けてくださるお方です。
 
 
 
体の免疫機能は、
ウィルスや菌が攻撃しようとすると
私たちが意識しなくてもちゃんと発動して
ウィルスや菌が体に入り込まないように
守ってくれる。
(自然にそうなってるっていうのが、
もともと神さまだけど、ほんとにすごい)
 
 
 
神さまは、
私たちの心を攻撃してくるものが
心の奥深く入り込んでしまって
私たちが立ち上がれないような傷を負ったり
いのちを奪われたりしないように
守ってくれます。
 
 
 
神さまへの信頼は
私たちの心の免疫機能。
しっかり食べてちゃんと眠ることが
体の免疫を高めるように、
しっかりみことばを読んでお祈りしていると
心の免疫も高められます。
 
 
 
いろんなことがある
「しかし」主は助けてくださる。
だから今日もだいじょうぶです。
 

もっともっと胸を張っていい

「わたし、わたしこそ、
あなたがたを慰める者。
あなたは何者なのか。
死ななければならない人間や
草にも等しい人の子を恐れるとは。」
(イザヤ51:12
 
 
 
日本の総理大臣が交代して、
1か月以上が過ぎました。
外交デビューも無事に終わって、
まずまずのすべり出しらしいです。
 
 
 
そんな中、ある記事が目に留まりました。
前の安倍総理に気に入られて
主要ポストをもらっていた人たちが
今は無官職、つまり
なんのポストもない一議員になっている。
というのです。
 
 
 
その代わり、今の菅総理の意見に
賛成してきた人たちがポストをもらって
表舞台に躍り出てきている。
去る人、登場する人の差、明暗が
くっきり。という記事でした。
 
 
 
安倍総理というバックがあったときには
いろいろ強気に言ったり
できたりしていた人たちも、
そのバックを失ったら、ただの人。
 
 
 
会社などでも、
だれがトップになるかで
こういうことはよく起こることなのでしょう。
 
 
 
ところで私たちのバックについているのは
だれでしょう?
それは神さま。
天と地を造り、私たちを造ってくれた方。
どんな人間よりも
大きな力を持っている方です。
だからほんとうはだれよりも胸を張って
もっともっと自信を持っていていいはず。
 
 
 
それなのに、
同じように死んでいく人間を
どうしてそんなにこわがるの?
と言っているのが今日のみことば。
 
 
 
どんなえらそうなことを言ったって、
どんな権力や暴力をふるっていたって、
やがては草のようにしおれ、
散ってしまうだけの人間。
 
 
 
だからうまく対処する必要はあっても、
こわがらなくていい。
私たちの後ろには
どんな人間よりも力強い神さまがついている。
 
 
 
もっと胸を張って生きましょう。
私たちはやがてすべてを支配する
王の王の側にいるのです。
 
 

 「小さな棘が教えてくれるもの」

「まことに、
彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。」
≪イザヤ書534
 
 今朝、
蜂に刺されました!
もう何年振りでしょか。

 スズメバチや熊蜂でないので、
油断をしていたのです。

 見る見る腫れ上がって、
ズキズキと痛みました。
 そんな時、
ふと思ったのは、
“イエス様はもっと凄い、
十字架の苦しみを
受けられたんだなあ!”
ということでした。

 小さな蜂のほんの小さな
針に刺されてもこんなに痛いのに、
それが十字架の釘だったら、
その痛みはどれだけでしょう。

 それでこんなに大騒ぎしている自分が
何だか申し訳ないやら、
恥ずかしいやら。
 「ごらん。
手の傷を、
茨の冠を。
これらはみんな、
あなたのために
受けたんだよ!」
(讃美歌1673節私訳)
 
 今日は、
イエス様の十字架の痛みを
思う一日を送ってみましょう!
 
『ジョン』
 

平気な顔のかげにあるもの

「彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが
私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
(イザヤ53:5
 
 
 
コロナに気を取られて
だいぶ忘れられてしまった感じだけど、
しばらく前に公文書の書き換え問題
というのがありました。
 
 
 
ほんとのことが書いてなきゃならないはずの
お役所の書類が書き換えられて、
ほんとだったら通らないはずのことが
通ってしまった。
 
 
 
しかも命令されて
実際に書き換えた人は苦しみのあまり自殺して、
命じたと言われている責任者は
「知りません」のまま。
 
 
 
命じた人は無事で、
やらされた人が自殺。
で、結局うやむや?!
たくさんの人がそんなのおかしい!!
命じた人が罪を問われるべきなのに。
って憤慨しました。
 
 
 
確かにおかしいよね。
でも実は私たち人間とイエスさまの関係は、
まさにこんな感じ。
 
 
 
ほんとはやったのに知らん顔で
何もなかったようにしているのが私たち人間。
それをかぶって
いのちを落としたのがイエスさま。
 
 
 
それなのに、勝手に死んだんじゃないの?
って感じでシラ~っとながめているなら、
命令してやらせておいて
自分は知らない、と言っている
えらいお役人と同じ。
と言われても仕方ない。
 
 
 
私たちが平気でだいじょうぶなような顔を
していられるとしたら、
それはすべて
イエスさまが死んでくれたおかげ。
 
 
 
そのことを決して忘れないように
心にしっかり刻んで、
今日も感謝して過ごしましょう。
 
 

この人はこれでいいんだよって言ってくれる

「見よ。攻め寄せる者があっても、
それはわたしから出たのではない。」
(イザヤ54:15
 
 
 
誹謗中傷によって深く傷ついたり、
場合によっては
自分のいのちを絶ってしまったり。
そういう悲しいことが
あとを絶ちません。
 
 
 
やっている人たちは、
人の欠点ばかりさがして楽しいのかな?
少なくとも心が豊かになることはないよね。
と思います。
 
 
 
それに、人の欠点がわかったからって、
それで自分がえらくなるわけじゃないし、
自分がだいじょうぶかどうかとは
まったく関係がない。
 
 
 
でもやってしまう。
人を攻めるのって罪のDNAの一部なんだろう
と思います。
 
 
 
でも、私たちを攻めるのって
人間だけじゃないよね。
神さまもすぐケチつけるよね。
って思っていませんか?
 
 
 
そう思っちゃうのはきっと、
自分たちがそうだからなんでしょう。
でも神さまはちがうのです。
 
 
 
もちろん知っていてわざと罪を犯していたら、
それは話が別。
でも、私たちの足りないこと、
弱いこと、欠点、
そういうことを神さまは責めない。
それを指さして攻撃したりしない。
そう教えてくれているのが今日のみことば。
 
 
 
攻めていると勘違いして
神さまの手の陰から遠ざかるなら、
逆に傷が深くなるだけです。
 
 
 
むしろ神さまは私たちを弁護してくれる。
この人はこれでいいんだよ。
って言ってくれる。
今日も攻めるのではなく守ってくれています。
神さまのもとにいればだいじょうぶです。
 

「わたしの道 あなたの道」

 
「わたしの思いは、
あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、
あなたがたの道と異なるからだ。
わたしの道は、
あなたがたの道より高く、
わたしの思いは、
あなたがたの思いよりも高い。」
《イザヤ5589
 
 今3年生で、
受験生の人もいるでしょう。
 
高校をどこに決めるか。
 
自分の進路をどうするか。
 
何系の大学に行くのか。
 
将来はどんな仕事に就いたらいいのか。
 
”自分の進むべき道”を考えている人も多いでしょう。
 
自分のしたいことがはっきりしている人も中にはいるでしょう。
 
 自分の進路を考えるとき、
そこに神様は同席していますか?
 
”あなたの思い”だけで”わたし(神様)の思い”は無視されていませんか?
 
 「神様の思いは、あなたの思いよりも高い」
と書いてあります。
 
神様にお祈りした時、
自分の思いがかなう時もあります。
 
自分が願ったようにならない時もあります。
 
けれど、
神様はわたしたちが思うことよりさらに高いことをしてくださるお方です。
 
神様の道がわたしの道となりますように・・・。
 
りべ
 

「視点を変えてみよう」

 
「天が地よりも高いように、
わたしの道は、
あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、
あなたがたの思いよりも高い。」
(イザヤ559
 
 あるイベントでサッカーのピッチに立ったときのことです。
 
とにかく広~いです。
 
これだけ広いピッチの中で、
味方の動きをまるで上から見ているかのように、
よくも正確にパスを出せるものだなと感心しました。
 
そんなピッチ上の景色をスタジアムの上段から見ると、
全く違う景色になります。
 
パスを出すコースや人の動きがよく見えるのです。
 
視点を変えてみるって大事なことなのです。
 
行き詰ったとき、
視線を天に移し神さまの目線で見てみませんか?
 
 違う景色が見えると思います。
 
(友)
 

「③深い傷」

 
「あなたの傷はすみやかにいやされる。」
(イザヤ58:8)
 
 友達を教会学校に誘った。
 
教会は遠かったから、
日よう日、
朝早く起きて、
バスを乗り換えて行った。
 
その子は喜んでいたし、
私もうれしかった。
 
ところが、
その子のおじいさんが突然亡くなって、
おばあさんが「○○が、教会に行ったからだ」
と言っていると聞かされた。
 
色々な考え方・信仰を持つ人の存在を知らなかった私は、
「私のせい」と心を痛め続けた。
 
その時、「祈ってください」と、
教会学校の先生に言えばよかった。
 
必要な時に、
言葉で伝えていれば、
深い傷にはならなかったと思う。
 
私は、
いっしょに祈ってもうことが必要だった。
 
その子と家族の為にも。
 
(ふ)
 

「水のかれない源」

 
 主は絶えず、あなたを導いて、
焼けつく土地でも、
あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。
あなたは、潤された園のようになり、
水のかれない源のようになる。
イザヤ書58:11
 
 人気の芸人さん
どうしてそんなに魅力的なのかというと
ひとが話すことを上手にとらえ
それを楽しい笑いに変えて
話したひとを元気にさせるからだそうで。
 
 人を明るく元気にさせる人のまわりに
だからみんな集まってくるのだと。
 
 乾燥地帯に住む人たちは
潤された園にやってきます
ゆたかな水をもらって
元気になるためです。
 
 神さまが自分に与えてくれる恵みには
この自分を導いて
まわりの人たちを明るく元気にさせる
そんなこともあります。
 
 この自分を
導いてください、神さま
 
「なた」
 

「しきりを取り除こう!」

 
「見よ。
主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、あなたがたと、
あなたがたの神とのしきりとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ」
イザヤ592
 
この世界にたった一つだけ
私達と神様との関係を破壊するものがあります。
 
それが「罪」と呼ばれるものです。
 
どんな小さな罪であっても、
それは私達と神様との間で
「しきり」となってしまいます。
 
もはや神様と共に歩むことはできないのです。
 
ここでは具体的な罪については触れません。
 
でも、
神様はあなたの「良心」を通して、
罪を示してくださいます。
 
あなたの心に、
神様は語り掛けていることがありますか?
 
あるなら、
そのことを先ず神様におわびしましょう。
 
また謝らなければならない
人がいるなら実行しましょう。
 
神様は実行するための力と
勇気を与えて下さるお方です。
 
何よりも先ず「罪」の問題を解決しましょう。
 
 【タマ】
 

「①おじさん天使」

 
「彼らが苦しむときには、
いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。」
 
 寒い冬の朝、
自転車を飛ばして
30分位の教会学校へ行った帰り道のことだった。
 
「ギュー」と変な音がして、
ペダルが動かなくなった。
 
親のママチャリ、
荷台に巻いてあったゴムひもが、
ガチガチに後輪に巻き付いてしまったのだ。
 
かじかんでいる手で外そうとしても、
ゴムひもは少しもゆるまないし、
後輪は動かない。
 
家までは遠く、
まわりは畑。
 
大ピンチ!
 
その時、
知らないおじさんが通りかかって、
あっという間にゴムひもを外してくれた。
 
背中に羽、
頭に輪っかは無かったけれど、
神さまが送ってくださった天使だと思った。
 
神さまは、
本当に私たちのことを見ていてくださる。
 
 (ふ)
 

「ひとりぼっち」

 
「彼らが苦しむときには、
いつも主も苦しみ、
ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって、
主は彼らを贖い、
昔からずっと彼らを背負い、
抱いてこられた。」
《イザヤ639
 
 わたしは小学生の時、
転校生が来るたびに「1度転校生になってみたいなぁ」と思いました。
 
そして小学6年生になる時、とうとう”転校生”になりました。
 
あんなに楽しみにしていた”転校生”ですが、
いざ現実になるとワクワク感は無く、不安1色でした。
 
新しい小学校で63組の教室に入りましたが、
誰一人知っている人はいません。
 
たくさんいるのに、
ひとりぼっちです。
 
 「たくさんいるのにひとりぼっち」と感じることはないですか?
 
誰にも言えない、
誰も理解してくれない、
誰も心配してくれない・・・。
 
でも聖書は、わたしが苦しむときは”いつも”主も苦しみ、
そんなわたしをおんぶして、抱っこしてくださると言っています。
 
 わたしたちはひとりぼっちになることはありません。
 
苦しい時、
歩けない時、
イエスさまはおんぶしてくださるお方です。
 
りべ
 

「神さまの深い愛」

 
 「彼らが苦しむときは、
いつも主も苦しみ、
・・・昔からずっと、
彼らを背負い、
抱いて来られた。」 
(イザヤ63:9
 
 今回のソチ・オリンピックで、
フィギアスケートの浅田選手が
ショートプログラムでまさかの16位。
 
そして、
次の日のフリープログラムでは
全力を尽して6位で終わりましたが、
多くの人たちが、
浅田選手の姿に感動し涙したと報じられていましたね。
 
 浅田選手が短時間で立ち直ったその陰に、
佐藤コーチの話があったと紹介されていました。
 
 フリー当日の練習時にも全く身が入っていなかった浅田選手に、
佐藤コーチが昔の話をしたそうです。
 
以前、
オリンピックで、
選手が不調で寝込み、
ギリギリの状態でフリーに臨んだと。
 
その時、
佐藤コーチは選手に
「ぶっ倒れたら、
周りに叱られても必ずリンクの中まで助けに行く。
倒れるまでやれ。その結果、会心の演技で8位に入った。」と。
 
そして浅田選手にも、
「何かあれば、先生が助けに行くよ。」
と優しく伝えたそうです。
 
 
 師の弟子に対する深い愛情と
優しさを見ることができます。
 
 人間でもそうならば、
神さまならなおのこと。
 
 私たちが苦しい時、
辛い時、
悲しい時に私たちを背負い、
歩んでくださる方だと「あしあと」の歌詞の中にもあります。
 
 みことばの中にも、
彼らと共に苦しみ、
昔からずっと、
彼らを背負い、
抱いて来られたとあります。
 
 神さまの私たちに対する深い深い愛を
実感できる経験ができるといいですね。
 
「ぴよ」