イムマヌエル綜合伝道団/教会学校課

イムマヌエル綜合伝道団 / 教会学校課

こころはハレルヤ

「ロゼット」

 
「天の下では、
何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある。」
 伝道者の書31
 
 多く雑草と言われている植物の中には、
「ロゼット」といわれる形のものがあります。
 
有名なのではタンポポなど、
葉を交差させて地面に張り付くように生えています。
 
この様子が上から見てばらのようなので「ロゼット」と言われます。
 
このロゼット、
春になっても茎を伸ばさず、
何年も地面にへばりついたままのことがあるのです。
 
 これは成長をやめたからではなく、
荒れた土地で栄養を十分吸収して、
その後で茎を伸ばすのを待っているのです。
 
何年もかけて栄養を吸収したロゼットは急にすくすくと伸び始めます。
 
また葉っぱが交差しているのも、
一枚一枚が光を十分吸収できるためだそうです。
 
下を向いた時、
ロゼットを見つけてみてもいいかもしれません。
 
T
 

イライラからも解放される

「すべてのことには定まった時期があり、
天の下のすべての営みに時がある。
…神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。」
(伝道者の書3:1,11
 
 
 
10時に待ち合わせしたとします。
あなたは何時に行きますか?
 
 
 
10時に待ち合わせなら
10時になったときにはぜったいそこにいる
と考える人。
だいたい10時に行けばいいんだから
5分、10分は誤差のうち
と考える人。
 
 
 
時間の感覚は人それぞれ。
それがあんまりちがっちゃうと、
なんでちゃんと来ないの?
いやいや、なんでそんなうるさく言うの?
…関係自体がなかなかうまくいかない
なんてことになるかもしれません。
 
 
 
神さまに対して私たちが
なんで? ちょっと、もう~~
と思うのも、
自分との時間間隔のずれが
原因のことが多いかもね。と思います。
 
 
 
いったいいつまで待たせるの?
いいかげん、
やってくれてもいいんじゃない?
もしかしてわざと遅らせてるの?
 
 
 
なんでそんなふうに
感じてしまうんでしょう。
それはきっと私たちが早ければ早いほどいい
って思ってしまっているから
じゃないかなと思います。
 
 
 
でも実はどんなことも
早ければいい、とはかぎらない。
起こるまで待つ時間。
その間に考えさせられること。
それもすべてちゃんと意味があるのです。
 
 
 
物事はドミノのように
つながっているから
一か所をあわてて動かすと
その一か所だけではすまなくなることもあります。
 
 
 
神さまは全部がうまくいく
いちばんいいときを知っています。
だから神さまにまかせておけばいいのです。
イライラからも解放されますね。
 

「逆境の日に」

 
「順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。」
 伝道者の書714
 
 小さな私たちの毎日にも順境、
逆境と言える日があります。
 
逆境の日には落ち込み、
何もする気がなくなる、
ということがあるかもしれません。
 
 逆境の日にも「することがある」と言われています。
 
反省という「心の働き」なのですが、
自分を追い詰めたりいじめたりというのではなく、
落ち着いて、
少しづつでも自分や周りを静かに振り返って、
小さなことでも発見していこうとすることなのだと思います。
 
 逆境の日には、
身近な人、
思いがけない人の優しさや、
それに素直になれない自分のわがまま、
そのほかにも、
いろんなことを気づかされます。
 
 けして逆境の日=悪い日ではないのです。
 
T
 

「ハダカの王様」

 
「あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてはならない。
なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」
 伝道者の書7章16
 
 かつて「私がルールブックだ」
と言った野球の審判がいました。
 
 彼はハダカの王様です。
 
 自己義に立てこもると、
結果、
この聖句に書いているように
「自分を滅ぼす」ことになりかねません。
 
 『正しすぎて』
『知恵がありすぎて』
人をさばくよりは、
優しすぎてあきれられるほうが、
まだましかもしれません。
 
 自分は知るべきほどのことも
知ってはいないことを
神様から教えて頂けるように祈りましょう。
 
 その謙虚さが身についていく時、
気がついたら、
正しく、
知恵ある者になれているのかもしれません。
 
(グッドビレッジ)
 

「決めつけずに、日々、前進!」

 
「すべての人が時と機会に出会うからだ」
(伝道者の書911
 
 という御言葉が好きです。
 
 “すべての人にチャンスはある!”
という意味ですね。
 
 同じ11節最初には
「競走は足の早い人のものではなく」とあります。
 
 まさに、
私たちはウサギが勝つと
決めつけてしまっていますが、
亀が勝つこともあるのです。
 
 決めつけは、
視野を狭め、
自分や人々の可能性を
つぶしてしまいます。
 
 「自分はこの程度の人間だ。」
「あの人はこういうことしか出来ない。」
と決めつけないで、
「すべての人が時と機会に出会う」
のであれば、
私たちは希望を持ちましょう。
 
 同じ伝道者の書の311節には
「神のなさることは、
すべて時にかなって美しい」とあります。
 
 私たちのあらゆる決めつけを
越えてなされる神のみわざを
ほめたたえましょう!
 
(グッドビレッジ)
 

「さぼりたいな~」

 
「なまけていると天井が落ち、
手をこまねいていると雨漏りがする。」
(伝道者の書1018
 
 息子のクラスメートにサボりの名人がいると聞きました。
 
特にトイレそうじのとき。
 
しゃべってばかりで手は動かさない。
 
だけど先生が来ると急にまじめになったりします。
 
人の目をくぐってうまくやっているのを見ると、
自分もサボりたいなと思うことがあると思います。
 
うまくやれば人の目はごまかせるかもしれませんが、
神さまの目はごまかせません。
 
今まいたものは後に刈り取ることになるので、
のちのち天井が落ちて後悔しないためにも、
コツコツと将来のためにイエスさまの上に人生の基礎を作って行きましょう。
 
(友)
 

濡れてもだいじょうぶなパン

「あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって
あなたはそれを見出す。」
(伝道者の書11:1
 
 
 
心やさしい正義の味方アンパンマン。
いつも強いアンパンチで
ばいきんまんをやっつける。
けど、弱点が一つ。
顔がぬれると力が出ない。
そりゃそうだよね。パンだから。
 
 
 
パンが濡れてしまったら
ふわふわ感ももちもち感も
ぜんぶ台なしです。
 
 
 
水の上に投げるだなんて
そんなバカなことをする人は
まずいません。
 
 
 
「パンを水の上に投げる」
ここで意味されているのは、
だれも見ていない善い行い。
心をこめてやっても
だれも評価してくれないほめてくれない行い。
なんのお返しも期待できない手助けなどなど。
 
 
 
そんなことは、
やっても何の意味もない。
やってもむなしいからやらない方がいい。
きっとそれが人間社会の常識でしょう。
 
 
 
水の上に投げたパンは
ぐちゃぐちゃになってしまう。
間もなく沈んで見えなくなってしまいます。
ずっと後まで残っている。
そんなことはふつうはあり得ません。
 
 
 
でも神さまの目から見たら
それは決して無意味じゃない。
それどころか、
人にはなんの評価もされないんじゃないか
と思われるそういう行いこそ尊い。
 
 
 
ずっと後の日になって
=自分でも忘れてしまうくらい時間がたって
ちゃんと自分のところに返ってくる。
そう言っているのが今日のみことば。
 
 
 
神さまにあってする行いには
何一つむなしいことはありません。
今日も何か一つでもよいことをしたり
困っている人を助けたり
できたらいいですね。
 

 「私にとって一番大切なもの!?」 

 
 「あなたの若い日に、
あなたの創造者を覚えよ。」
 <伝道者の書12章1節>
 
 今、
あなたにとって
一番大切なものは何ですか?

 友達ですか?
部活ですか?
お金ですか?
それとも、、、
良い学歴を持つことですか?

 “私が生きていくためには
これが必要!”
と思うものがあるでしょう。

 実際、
私達が生きていくために
必要なものはたくさんあります。

 その必要を
満たして下さるお方は、
私達一人一人を
尊い存在として
創造して下さった神様です。

 神様は、
私達が生きていくために
必要なものはもちろん、
私達の心を満たして下さいます。

 そのような神様を
若い頃から体験したいと
思いませんか。

 神様との交わりを
求めてみませんか?
「レホボテ」